戦争のはらわた

1999/12/07 シネカノン試写室
第二次大戦で敗走を始めた対ソ戦線のドイツ軍を描いた戦争映画。
サム・ペキンパー監督が'77年に撮った大作。by K. Hattori


 ロシア戦線から敗走して行くドイツ軍を描いた、サム・ペキンパー監督の戦争映画。2時間13分の大作だが、スローモーションを使った血みどろの戦闘描写と、滅び行く古いタイプの男たちへの郷愁と同情が、いかにもペキンパーらしい。物語の舞台は1943年の東部戦線。破竹の勢いでソ連に攻め込んだドイツ軍は、敵軍のねばり強い抵抗にあって、今や少しずつ戦線を後退させつつある。勢力の拮抗した膠着状態ではなく、明らかなドイツ側の劣勢。疲弊したドイツ側に対して、ソ連は着々と補給を整え、勝負が付くのは時間の問題だ。そんな戦場に、新しい士官がやってくる。「私が来たからにはソ連など蹴散らしてみせる!」と豪語する張り切り屋のシュトランスキー大尉は、硝煙と泥にまみれた戦場にはあまりにも不似合いな人物だ。貴族出身の大尉は、戦場でしか手に入れられない“武勲”欲しさに、わざわざ最前線を志願してきたのだ。大隊の指揮を執る大佐は、この場違いな新米中隊長に、信頼するシュタイナー伍長の小隊を預ける。シュタイナーは戦場で生き延びる術を身につけた、筋金入りの兵隊だった……。

 戦場における貴族の名誉という問題は、ジャン・ルノワールが『大いなる幻影』の中でテーマにしていた。『大いなる幻影』は第一次大戦を背景にしているが、その時点で既に、戦場での貴族的振る舞いは時代遅れになっていた。しかしプロイセンの貴族で代々職業軍人の家柄でもあるシュトランスキー大尉にとって、そんなことはお構いなしなのだ。彼は是が非でも戦場で武勲をたてて、家族に勲章を見せびらかさなければならない。それが彼に課せられた「貴族としての義務」なのだ。『大いなる幻影』で描かれた貴族の義務は「ノブレス・オブリージュ」のことだった。貧しくはあるが自由な平民に比べ、貴族はより高い精神性と義務を負うということだ。それに比べてシュトランスキーの義務がたかだか勲章の有無とは、何という俗っぽさ、安っぽさだろうか。

 この映画の戦闘シーンは壮絶の一語だが、連続したショットの間に短く別のショット(爆発や銃撃)をインサートする場面が多いし、ペキンパーの売り物であるスローモーションも多用しすぎているように思う。こうした技巧を凝らすことで、観客は目の前の戦闘シーンが「映画」であることを否応なしに自覚させられてしまうのだ。同じように壮絶な戦闘シーンなら、『プライベート・ライアン』の方が何十倍もうまい。高度なSFX技術が発達した現代の目で観ると、カットの切り替えで臨場感を出す手法には限界があるのだ。

 この映画は単に「独ソ戦線」を描いたわけではなく、戦争と人間、戦場と名誉、兵士と女たち、戦場における人間の尊厳などを描こうとしている。どんな戦闘シーンより、トラックが死んだ兵士を無造作に踏んづけて通る場面はショッキングだし、敗走ぎりぎりまで勲章にこだわり続ける士官の様子には生々しさがある。ところでこの映画のラストは、黒澤の『野良犬』じゃないの?

(原題:Cross of Iron)


ホームページ
ホームページへ