愛の奇跡

1999/11/30 映画美学校試写室
ジョン・カサヴェテス監督が'60年代の養護教育を描いたドラマ。
障害児への対処法に現代とは隔世の感がある。by K. Hattori


 全寮制の養護学校を舞台に、知的障害を持つ子供たちを世話しながら、理解のない政治家や役人、世間の偏見と闘う教師たちを描いたヒューマン・ドラマ。まるで山田洋二の『学校II』だが、1963年の映画なので内容的には古びている。映画に描かれている障害児たちの境遇は、今とは比較にならないほど悲惨なものだ。障害児に対する偏見が強くて、子供の障害がわかった途端、親が自殺まで考えるのには愕然とする。この映画の主人公とも言えるルービン少年は障害が比較的軽いのだが、それでも親は再起不能になりそうなほど打ちひしがれてしまうのだ。こうした親の気持ち自体は、僕にも理解できないわけではない。福祉が充実し、障害児に対する理解が深まってきた現在でも、子供の障害を知った親はショックを受けるだろうし、「なぜ我が子に限って」と悩むことだろう。しかし今はそうした悩みから脱出する道がいくらでもある。障害が軽ければ、大人になって自立した生活をすることも可能だし、普通の職業に就くことも可能だ。結婚して家庭を作っている障害者も多い。そうした事例を知っていれば、子供が仮に障害を持っていたとしても、それを死刑宣告のように受け止める必要はないのだ。この30数年間で、知的障害者を取り巻く状況は一変した。それは同じように知的障害者と家族の関係を描いた映画『カーラの結婚宣言』を見れば一目瞭然だ。

 この映画には、障害を持った我が子をありのままに受け入れることができない父親が、紆余曲折を経て我が子を受け入れ抱きしめるまでが描かれている。これは感動的だ。僕も素直にこの場面には感動した。しかしどうしても理解に苦しむのは、我が子を学校に早く馴染ませるため、面会を拒む母親の姿だった。自分は面会を拒む一方で、この母親は父親に対して一度ぐらいは面会に行けと言うのです。この矛盾をどう理解すればいいのでしょう。仮に親に何らかの事情があり、それがもっともな理由だったとしても、僕はこの親の行動はひどいと思う。親の事情がどうあれ、親に会えない子供は自分が捨てられたと思うはずです。母親が乗り込んだ車をルービンが追いかけようとする場面は、かわいそうすぎて涙が出た。彼は父親に捨てられ、ここで母親にも捨てられたのです。こんな残酷な話があるでしょうか?

 相手は子供でも、事情を説明する義務はあるはずです。たとえ相手がそれをきちんと理解できないとしても、説明しようとするのが人間同士の基本的な関係ではないのだろうか。この親の行動も、それを支持する教師たちも、結局は障害児を「事情を説明する必要のない相手」だと思っているのではないだろうか。ルービンの知能は5歳児と同じだと台詞で説明してあったが、5歳児は大人の説明を驚くほどきちんと理解できるものです。

 主演はバート・ランカスターとジュディ・ガーランド。ガーランドは音楽教師という役で登場しますが、この役は別に彼女でなくてもよかったと思う。最晩年の映画出演作ですが、なんだか痛々しく感じてしまいました。

(原題:A CHILD IS WAITING)


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