大いなる幻影

1999/10/18 映画美学校試写室
往年のフランス映画とはまったく関係がない黒沢清監督作。
話がまったくつながらない実験的作品。by K. Hattori


 『カリスマ』の公開も控えている黒沢清監督の最新作だが、これはどう評価すればいいのか……。面白い映画かとたずねられれば、迷わず「つまらない」と答えるんですが、じゃあダメな映画かというとそうではない。この映画のつまらなさは、監督の意図した表現が結果として生み出しているものでしょう。監督は最初から、普通の意味での「面白さ」をこの映画に求めていないように思えます。面白い映画を作るつもりでつまらなくなったのなら、その映画は間違いなく失敗作。でも最初から面白くない映画を作ろうとして、出来上がった映画が実際に面白くないのであれば、それは作り手の意図通りの出来というわけで、つまりは成功作ということなんだろうか……。う〜む。それじゃ観客はたまらんなぁ。

 この映画には、ストーリーらしいストーリーがありません。通常のストーリーというのは、「原因と結果」「アクションとリアクション」という因果律でつながれたエピソードの集積から構成されています。この因果律がどこかでほころびると、「構成が悪い」とか「脚本の書き込み不足」とか、逆に「無駄なエピソードが多い」と責められることになる。ところがこの『大いなる幻影』という映画は、物語が因果律を最初から拒絶している。映画の中に登場するのは出来事の「結果」だけであったり、別の出来事の「発端」だけだったり、ある局面の「経過」だけだったりする。エピソードの全体像は観客の前に提示されず、常にある一部分だけが観客に知らされ、後は知らんぷりを決め込まれてしまうのだ。

 映画を観ていると、「なぜ?」「それからどうなったの?」「これは何?」という場面が非常に多い。映画の基本的なテクニックに、エピソードの経過を省略して筋運びに弾みをつけたり、サスペンスを生み出すきっかけにすることがあるが、この映画では何でもかんでも省略してしまって、観客は物語のアウトラインすらつかめない。それこそが作り手の目的なのだから、観客である僕が「わからんぞ!」と文句を言っても仕方がない。むしろこの映画の中では、少しでも「わかる」場面があることの方が問題なのです。エピソードが連なってドラマを形作り始めた途端に、この映画が持っている極端に不安定なバランスは崩壊してしまうでしょう。

 それにしても、主演の武田真治や唯野未歩子はこの映画の脚本を読んで、自分の演じる役柄についてどれだけ理解できていたんでしょう……。この映画の中ではエピソード同士に脈絡がないため、映画の統一感を作っているのは主演ふたりの芝居そのものだと言ってもいい。武田真治も唯野未歩子も、まるでそこにハルやミチという人間が実在するかのように、自信たっぷりに演技をしています。特に武田真治はすごい。『TOKYO EYES』もよかったけど、今回も絶品でした。この映画のもうひとつの主役と言えるのが、主人公たちの住んでいる部屋。ロケセットのようですが、こんな場所をよくぞ探してきた。これはスタッフたちの努力のたまものです。


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