アナーキー・イン・じゃぱんすけ

1999/08/20 TCC試写室
この映画のどこが面白いのか、僕にはまったくわからない。
不良中年3人組よ、もっと暴れろ! by K. Hattori


 瀬々敬久監督の新作。僕はこの監督の作品を『冷血の罠』しか観ていないので、今回の作品がこの映画監督にとってどんな位置づけになるものなのか、さっぱりわからない。ただ一言だけ言えるのは、僕はこの映画がつまらなかったし、理解できなかったということ。映画を評価する場合、「面白い・つまらない」と「理解できる・理解できない」というのはまったく別の座標軸。僕はこの映画を「理解できなかった」から「つまらなかった」わけではない。わかりきったことですが念のため……。

 物語は1981年から始まる。ドラッグとセックスに溺れて不妊になったミズキは、故郷に戻って人生をやり直そうとする。だが故郷に足を踏み入れたのもつかの間、ミズキは再び都会へ。その途中、駐車中の車に乗っていた赤ん坊を衝動的にさらってしまう。それから8年後の1989年。コンビニで働く中年男タツトシは、深夜の店で子連れのミズキに出会う。タツトシは葬儀屋のナカザト、新聞拡張員のグミョウジの不良中年3人組はソープに繰り出し、ソープ嬢をしているミズキと再開。やがてふたりは同棲するようになるのだが……。

 この映画のわからなさは、ストーリーや構成のしかたにあるのではない。わからないのは、この映画の作り手が、この映画の中で何を描こうとしているかなのだ。これは主人公たちが作り上げる「疑似家族」についての物語なのか? それとも語り手となるタツトシを筆頭とする、中年男3人組の痴態を描きたかったのか? この映画の中で、セックスはどのような役割を担わされているのか? ミズキという中心が欠落した物語の終盤を、観客はどのように解釈すればいいのか? ミズキが誘拐したヨシキと、その後で実の両親の養女となったマリの疑似近親相姦的な関係にどんな意味があるのか? 映画の個々のエピソードに意味を求めても仕方ないが、話がつまらないのだから、映画を理解するためには個々の対象を解釈するしかないだろう。ところがこの映画は、それぞれのエピソードが極めて行き当たりばったりで、映画の中で何者かになろうとする気配さえ感じられない。

 新東宝・国映製作のピンク映画として観た場合も、セックス描写がアッサリしすぎていてちっとも劣情をそそられない。だいたいここで描かれているのは、紙おむつを取り替えてくれと女にせがむ中年変態男や、シックスナインの最中に女の子がおならをするとか、生理中の女とセックスしてあたりが血だらけとか、そんなエピソードばかり。もうちょっと、何とかならんのかね……。

 映画がどんな方向を目指そうとしているのかわからないので、「つまらない」以外に評価のしようがない。もう少し狙いがはっきり見えると、「ここで失敗している」とか「ここが物足りない」と具体的な指摘もできるけど、この映画にそうした声をかけるのは無理です。

 不良中年を演じた佐野和宏、下元史朗、諏訪太郎がユニークですが、暴れ具合がこぢんまりしていて物足りない。アフレコのせいだけじゃないと思うけどなぁ……。


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