ディープエンド・オブ・オーシャン

1999/08/10 SPE試写室
誘拐された子供が9年ぶりに戻ってきた時、家族は……。
ミシェル・ファイファー主演の人間ドラマ。by K. Hattori


 パチンコをするために子供を炎天下の車の中に放置するなどは論外だが、親がふと目を離した隙に、子供が事故や犯罪に巻き込まれることはしばしばある。この映画の主人公ベスは、大勢の人でごった返すホテルのロビーで、白昼堂々3歳の息子ベンを誘拐された。フロントでチェックインの手続きをするほんのわずかな時間に、息子は忽然と姿を消してしまったのだ。すぐ近くにいた7歳の兄ビンセントも、何が起きたのかまったく気付かなかった。犯人からの連絡はない。誰が何のためにベンを誘拐したのか、皆目見当が付かないのだ。警察の賢明の捜索もむなしく、9年の歳月が経ってしまう。新しい家に引っ越してきたベスは、芝刈りのバイトを求めて玄関先に現れた近所の少年が、行方不明のベンにそっくりなことに気付く。警察が動き出した。サムと名乗っているその少年は、まさに行方不明のベンだった!

 この映画は誘拐をテーマにした犯罪映画ではない。ここで描かれているのは、愛する子供を失う親たちの恐怖と喪失感。そして、家族の一員を失ったことで壊れて行く家族の様子だ。ベンが行方不明になってから、ベスは笑わなくなる。小さな微笑みさえ不謹慎で罪深いことのように感じ、自分自身を責める。「なぜあの時」と考えると、ベスとビンセントは心が晴れることがない。家族の中に芽生える新しい歓びは否定される。ベンがいなくなった埋め合わせに何かをするなんてとんでもない。家族の中では、ベンが消えたときから時が止まる。

 映画の丁度中間地点でベンが発見されるが、本人はおろか育ての親でさえ、彼が誘拐された子供だという意識はない。ベンは育ての親を「パパ」と呼び、連れ戻されたベスたちの家では、親戚の家に居候しているような緊張感を強いられる。ベンの育ての親も、我が子同然に可愛がってきた自慢の息子と別れさせられて、ひどく辛い思いをしている。子供を奪われたベスたちは、子供を取り戻すことで、結果として他人の子供を奪ってしまうのだ。愛する者の喪失は、何度も繰り返される。

 原作はジャクリーン・ミチャードの小説「青く深く沈んで」だが、映画の邦題は原題をただカタカナにしただけの能なしぶり。もう少し知恵を出して、キャッチーな邦題を考えられないものなんだろうか。せっかくのいい映画も、こんなタイトルでは艶消しです。

 この映画で面白かったのは、やはり前半。子供が誘拐されたときのマスコミの動きや、情報収集のボランティアがあっという間に集まってくるくだりは、いかにもアメリカ流だと思う。マスコミはともかくとして、組織化されたボランティアの行動力はすごい。体育館のような場所を借りて、机とイスと電話線を運び込み、即席の情報センターを作り上げてしまう。警察だけに頼ることなく、こうして草の根で犯罪捜査に協力するところが、アメリカの市民社会を健全なものにしているのでしょう。もちろん、こうしたボランティアを支援する行政側の体制もあるんでしょうね。日本も見習ってほしいなぁ。

(原題:THE DEEP END OF THE OCEAN)


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