フランツの自由

1999/07/09 シネカノン試写室
刑務所を脱走した青年をしばる心の中の牢獄を描くモノクロ映画。
脱走した瞬間の高揚感と開放感が素晴らしい。by K. Hattori


 ドイツ版『鉄道員(ぽっぽや)』、『ワラー最後の旅』の監督クリスチャン・ワグナーが、今から15年以上前に製作したデビュー作。『ワラー最後の旅』の時も思ったけど、なぜこの映画を今公開するのかわからない。決して悪い映画ではないし、時代性にしばられた映画でもないけれど、なぜこの小品を今公開するんだろうか。配給のシネマ下北沢は、クリスチャン・ワグナー監督をこれから大きく売り出していく野心でも持っているのだろうか。『悦楽晩餐会』『ラン・ローラ・ラン』『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』など、最近のドイツ映画は面白いし、これからどんどん注目されるでしょう。しかしワグナー監督の作品は、そうした一般受けしそうな「面白さ」や「娯楽性」とは離れたところにあると思う。人間の内面を静かに見つめたような、地味で内向的な作品なんです。他のドイツ映画とは同列に扱えない。

 刑務所を脱走したフランツという青年が、町でスクーターを盗んでどんどん逃げる。途中でヒッチハイクのアンドレアという女の子と合流して、これで楽しく自由な生活がはじまると思ったのだが……、というお話。52分のモノクロ映画で、作っている方も素人なら、出演しているのも素人。こうした手作り感覚は「ヌーヴェル・ヴァーグ」の後継者っぽい雰囲気だ。

 話のテーマそのものは「人間にとっての牢獄は心の中にある」という陳腐なもので、僕は特に感銘を受けなかった。これがテーマとして成り立つなら、「人間にとっての自由は心の中にある」という逆も成り立つわけで、ひいては「監獄の中にいても人間は自由だ」という説も成り立ってしまう。いいのか、それで。映画の中では、脱走囚のフランツと自由人のアンドレアを対比しているわけだが、その違いもあまりシャープに描けていなかったと思う。人間にとって、自由と不自由を分けているのはどこなのかが、この映画からはよく伝わってこない。結局、フランツの母親の話などにエピソードの結末が回収されて、「人間にとっての自由」という普遍的なテーマに到達していなかったと思うのだ。

 この映画を撮ったとき、監督のワグナーは24歳。主人公フランツやアンドレアと、ほぼ同世代だった。したがって、ここで描かれている青年期のいらだちなどに、監督としては十分な感情移入があったのだろう。この映画は、監督の心情吐露としては面白い。しかしその心情がどこに根を持つものなのか、分析し切れていないように思える。フランツがなぜ刑務所に入っていたのかという理由をあえてボカしているのは、そうすることでフランツというキャラクターに普遍性を持たせようとしたのかもしれないが、あまり効果的ではないと思う。

 脱走したフランツが、線路脇の草原を一心不乱に駆け抜けて行く場面が素晴らしい。この長い移動撮影は、やや退屈に思えるこの映画の中の宝だと思う。ここで描かれる開放感があまりに魅力的なので、僕は最後にまたフランツが脱走するのではないかと思ってしまった。

(原題:Eingeschlossen frei zu sein)


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