ボーダーライン

1999/06/13 パシフィコ横浜
(第7回フランス映画祭横浜'99)
死んだ友人の願いを叶えるため、車に死体を積んで一路ベニスへ。
愛する人を送る心を見つめたロードムービー。by K. Hattori


 病院に友人ロマンを見舞いにいった4人の仲間たちは、病室の前に沈痛な面持ちで立ち尽くしている彼の父から、ロマンがその朝死んだことを知らされる。仲間たちへの形見として手渡されたビデオテープの中には、死の直前のロマンが仲間に託したメッセージが収録されていた。「僕が死んだら死体をベニスに運んで火葬してほしい」というのがロマンの最後の願いだった。仲間たちは友の最後の願いをかなえるため、病院から死体を盗みだしてオンボロ車に乗せる。病院の駐車場でロマンの妹ニナに出会った4人は、彼女も車に押し込んで一路ベニスに向けて出発する。仲間たちにとっては、友に対する友情から発した行動。だがこれは、世間的には立派な死体盗難事件だ。病院からの連絡で警察と父親が動きだす。ビデオを見つけて4人の目的を知った父親は、列車を使ってベニスまで先回りしようとするのだが……。

 映画は大きく2つの部分に分かれている。ひとつは言うまでもなく、死体を運ぶ4人の男とひとりの女の行動をコミカルに描いた部分。トランクに死体を乗せたまま、どうやって警察の追求を逃れ、国境の検問を突破するかが大きな焦点。突然始まった自動車旅行の中で、互いによく知っていると思っていた仲間同士に葛藤が生まれ、それぞれの向き合っている人生の断片や、秘められた過去、性格の裏側がかいま見えてくる。これは典型的なロードムービーのスタイルだ。やっていることは死体を運ぶというややグロテスクにも思える行為なのだが、この映画ではそこをユーモアで包み、死体については一定の敬意を払っている。この映画の中でユーモアを生み出すのは、「見つかってはならない荷物がトランクの中にある」「昨日までの日常的な日々を今は踏み外している」という場面に限定されている。死体そのものをいじくり回せば、もっと直接的なギャグは生まれるのだが(例えばヒッチコックの『ハリーの災難』や『フレンジー』などのように)、この映画では死体を直接描写するのがラストの火葬場面だけ。じつに禁欲的なのだ。(ちなみに死体を演じているのはアラン・ベジェル監督本人。)映画のもう一方のパートは、死んだ青年の父親がたどる心の旅だ。父親は列車で息子の死体を追い掛け、途中で出会った若い日本女性との交流を通じて、息子の死を少しずつ受け入れ、息子の最後の願いについて考え始める。

 この映画で描かれているのは、「愛する人が死んだとき、いかにして見送るか」という問題。洋の東西を問わず、文明国では死者を送り出す手続き全体が、医者や役所や専門業者の手に委ねられ、家族や友人が直接手をだすことが難しくなっている。だがこの映画の主人公たちは、あえてそれに挑むのだ。この映画を観ると、葬送というものが単なる儀式や手続きではなく、「死者への愛情を再確認する作業」であることがよくわかる。偶然のなりゆきでこの“葬儀”に参列した若い日本女性が、友人や肉親たちの輪の中に入っていくことが出来ないのは当然なのだ。死者は生きている者のなかに生きている。

(原題:MILLE BORNES)


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