菊次郎の夏

1999/04/12 日本ヘラルド映画試写室
北野武監督の最新作は中年男と少年のロード・ムービー。
現代版『丹下左膳余話・百萬両の壺』だ。by K. Hattori


 ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を筆頭に、国内外で数々の賞を受けた『HANA-BI』に続く、北野武監督の最新作。今回は今までとガラリと雰囲気を変えて、ほのぼのとした人情話になっている。主人公はビートたけし演ずる中年男と、小学3年生の少年。ふたりは少年の母親に会うために、浅草から豊橋まで出かけることになる。新幹線を使えば、日帰り出来てもおかしくないような距離。ところが、グウタラ男は浅草を一歩出たとたんに競輪場で金を使い果たし、ふたりはヒッチハイクや野宿をしながら旅を続けるのだ。

 形式としては型どおりのロード・ムービー。この手の映画は「移動距離」と「移動時間」が物語を串刺しにしてしまえば、中にどんなエピソードでも盛り込めるメリットがある。この映画でも、タケシ軍団は出てくる、ビートきよしが出てきて“ツー・ビート”が再結成される、ビートたけしがバラエティ番組でよく見せる扮装ギャグがある、麿赤児の舞踏がある、ブレイクダンスやタップダンスがある。こうした雑多な諸々を盛り込んでも、映画が破綻しないのはロード・ムービーだからです。

 今回の映画は、今までの北野作品にあった、人間性を見透かしたような残酷さが薄れている。個々の場面は間違いなく北野作品としてのムードを持っているのだが、今までの作品が出会い頭に鋭利な刃物で切りつけられるような恐さを感じさせるとすれば、今回の作品にあるのは、やさしく肩を抱いてくれるような優しさだ。「北野武=ビートたけし」には“才能の振り子理論”があって、真面目に映画を作っている北野武監督と、バラエティで馬鹿をやっているビートたけしの両方がいて、はじめて「北野武=ビートたけし」が完成すると言ってきた。今回の映画を観ると、北野武監督の内部でも“才能の振り子理論”があるように思える。今回の映画では、今までの北野調をあえて捨てているのだ。レギュラーの大杉漣や寺島進が出演していないことからも、「今回はいつもと違うぞ」という意気込みが見えてくる。

 ロード・ムービーでは、旅を通じて主人公たちが精神的に成長を遂げるというのが、ひとつのパターンになっている。『菊次郎の夏』のユニークさは、そのまったく逆をやっていること。世の辛酸をなめたはずの中年男は、少年と旅をする中で少年に同化し、どんどん子供に戻っていく。祖母とふたり暮らしの少年を「どうせ母親が男でも作って逃げ出したんだろう」と揶揄していた男は、いつしか少年と同じ「母親に会いたい」という気持ちを分かち合うようになってしまう。

 中年男と少年のからみは、どこかぎこちない。このぎこちなさは、子役の少年を持て余しているビートたけしや北野監督の戸惑いが、半ば反映しているものだと思う。僕はそこに、山中貞雄の傑作『丹下左膳余話・百萬両の壺』で大河内傳次郎が見せたテレと同じものを発見して喜んでしまうのだ。話そのものは『瞼の母』のバリエーション。でも、幾度かホロリとさせられました。


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