エブリバディ・ラブズ・サンシャイン

1998/12/11 KSS試写室
ホモセクシャルの匂いがプンプンするイギリス製のギャング映画。
自覚なき同性愛がゆがんだ独占欲を生み出す。by K. Hattori


 昔なじみのギャングふたりを、刑務所に出迎えに行くお決まりのオープニング。出所してくるテリーとレイは従兄弟同士。ふたりとも、ギャング・グループの幹部だ。出所早々、中国マフィアの台頭に神経をとがらせるテリーに対し、ギャングから足を洗ってミュージシャンになる決意を告げるレイ……。足を洗おうとするギャングが、友情と渡世のしがらみに引き裂かれて行くという、ヤクザ映画の定番のストーリーかと思いきや、この映画は途中から思いっきりホモセクシャルの匂いを振りまく、暴力的な映画に変貌して行くのだった。

 この映画の面白さは、テリーがレイに対して同性愛的な執着を示している点。僕の目から見ると、テリーはレイを仲間としてではなく、恋人として自分の手元に置いておきたいことが見え見え。ところが本人はそうした自分の感情にまったく無自覚だから、行為がどこまでもエスカレートするのだ。レイの恋人に対するレイプとリンチは、レイを奪われたテリーの嫉妬です。ひょっとしたら、テリーは自分の同性愛傾向に薄々は気づいているのかもしれない。レイの恋人をレイプする時に「俺をホモだと思ってるのか!」と叫ぶシーンは、あえて自分の中の同性愛傾向を否定しているようにも思えます。映画の途中で「テリーはホモだ!」と気づいてしまうと、彼がレイに「俺たちはシャム双生児のように一心同体だ」と言ったりする台詞も、意味深なものに感じられる。ふたりは刑務所の中で、どんな関係だったんだ?

 この映画を普通のギャング映画として観ることも可能だが、ギャング抗争の筋立てや暴力シーンに、新しさは感じられない。中国人ギャングの描き方は薄っぺらだし、何がどうなって抗争に終止符が打たれたのかさえわからないのだ。テリーは中国人ギャングの脅威という外圧を利用して、組織の結束を固め、レイが脱落することを防ごうとしているだけのようにも思える。

 アメリカ映画なら、こうした主題を扱っても主人公に一定の逃げ道を用意しておくだろう。これは必ずしもハッピーエンドにするという意味ではなく、主人公が破滅するならするで、その明確な理由をどこかに用意しておくという意味だ。失敗の原因がどこか明らかにされていれば、それで少しは観客が安心できる。「なるほど、彼はあそこで失敗した。なんて愚かなことか!」と他人事として突き放すことができる。だが、この映画はそうした安易な解決法を許さない。レイはどうすれば、テリーから逃れて幸福になることができたのだろうか。彼がテリーから離れるには、親を捨て、仲間を捨て、恋人を捨てなければならない。「テリーと離れなかったことで、結局は親も仲間も恋人も不幸にしたではないか」というのは結果論だ。レイの置かれている立場は、それほど生やさしいものではない。映画の中で一番正論を吐いていたレオンが、暴力の前になすすべもなく屈してしまうのが、この映画のすべてを象徴的に表している。暴力に非暴力で対抗するのは、なかなか難しいことなのだ。

(原題:EVERYBODY LOVES SUNSHINE)


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