ニンゲン合格

1998/10/05 徳間ホール
10年の昏睡から目覚めた青年が失われた家族を再構成?
『CURE』の黒沢清監督最新作。by K. Hattori


 東京国際映画祭のコンペ部門に出品される、黒沢清監督の最新作。交通事故で10年間昏睡状態だった主人公・吉井豊が目覚めたとき、14歳の中学生は24歳の青年になっていた。眠っている間に、両親は離婚、家族は離散。病院には父親の友人・藤森がやってきて、10年分の雑誌やビデオを差し入れてゆく。交通事故の加害者もやってきた。やがて豊は藤森にひきずられるように、今は藤森が暮らすかつての自分の家に戻ってゆく。

 『CURE』『蛇の道』『蜘蛛の瞳』と、人間の心の闇を描き続けた黒沢清監督の作品だけに、これがほのぼのとしたホームドラマで終わるはずがない。主人公の豊は目覚めた自分の前に現れない家族を捜すでもなく、ひたすらぼんやりと毎日をすごす。やがて彼のもとに、父が、妹が、母親が姿を現し、崩壊した家族は豊を中心にして、もとのまとまりを回復しつつあるかに見えてくるのだ。14歳の魂を持ち続けた24歳の豊は、ある意味では精神年齢が退行した障害者と言えます。僕は彼を「聖なる愚者」の系列に入れてしまってもいいと思う。壊れた家族が彼によって癒され、もとの活力を取り戻してゆけば、これは古典的すぎる展開です。

 ところが黒沢清は、この映画にそんな常套手段を持ち込まない。物語の前提だけは古典的なのに、展開はあくまでも今風です。父親は帰ってこない。母親も帰ってこない。妹も出ていってしまう。豊の周囲で、一時的にせよ家族が再会することは最後までありません。途中で一瞬、家族の絆が復活するかに見えるシーンがありますが、それはテレビ画面を介したバーチャルな物で、現実の生活は同じようには展開しない。映画の最後でようやく一堂に集まった家族たちも、無言でばらばらに散ってゆく。壊れかかった家族が絆を取り戻すことはあっても、完全に壊れてしまった家族が元に戻ることはない。ここには、そんなリアルな現実が描かれているようです。

 話自体は単純ですが、映画は全体にギクシャクしていて、僕はあまりノレなかった。主人公は24歳の体を持った14歳の少年ですから、その行動が多少ギクシャクするのは仕方がないのですが、映画全体が最後までギクシャクしていたのは釈然としない。タッチとしては『蛇の道』や『蜘蛛の瞳』にも通じるものですが、暗い犯罪者の心理を描いたこれらの作品と今回の作品とでは、演出のタッチを変えた方がよかったように思います。特に気になったのは、カメラの動かし方。人物の会話を切り返しで交互に画面にとらえる場合、普通はカットでつないでゆくのですが、この映画は何ヶ所かで大きくカメラをパンさせている。カメラをプルバックさせて、また前に出すような場面もあった。こうしたカメラの「視線」は、普通は登場人物の一人称の視点を表現する際に使うものです。この映画ではそれを無造作に使っているため、映画を観ていると「これは誰の視点だ?」と気になるところが出てきてしまう。これが映画を観ている際の引っかかりになるのです。僕はすごく気になりました。


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