シンク

1998/09/18 ぴあ試写室
テレパシーのような力で会話を始めた、男女3人の日常。
インターネット世代には共感できる物語。by K. Hattori


 ある日突然、自分たちがテレパシーのような遠隔通話能力を身につけていることに気付いた男女3人。問題は、この能力が心で念じたことを相手に伝えるのではなく、言葉を口に出さないと相手に話が通じないことだった。当然、距離が近ければ普通の会話と同じ。感覚としては、遠く離れた場所同士で、電話を使わずに電話をしているのに近い。偶然知り合った3人は、とりとめのない会話を交わしながら、それぞれの日常を生きて行く。互いの名前と顔は知っていても、詳しい素性は知らない。それぞれは「友人」だけど、その関係は「会話」だけで成り立っている。ファンタジックなモチーフを扱いながら、この奇妙な「電話」が、携帯電話や電子メール同士のコミュニケーションのメタファーのように見えて、インターネット世代の僕にはとても身につまされる映画です。

 僕は電子メールをやり取りしている「友人」が何人かいますし、パソコン通信の電子会議室上で親しくコメントを交換している人たちもいる。こうした人間関係はすごく濃密なコミュニケーションがあるようで、じつはすごく脆い面も持っています。ある日突然、相手が姿を消してしまったとしても、その理由は誰にもわからない。ただ単にネットにアクセスしなくなっただけなのか、それともアクセスはしているけれど返事をしないだけなのか。ひょっとしたら死んでいるのかもしれない。コミュニケーションが途絶えた瞬間から、相手の存在を確かめる術がまったく断たれてしまうのです。

 僕はインターネット上にホームページも持ってますが、例えば交通事故か急な病気で僕が死んでしまっても、プロバイダーの利用料金が銀行口座から引き落とされている限り、僕のホームページはインターネットの中に存在し続けるし、僕のメールボックスには読者からのメールが届き続ける。僕は幸か不幸かまだ生きてますが、世の中には主を失ったまま放置されているホームページが、ごまんとあるに違いないのです。(以前ホームページの更新をしばらくサボっていたら、読者のひとりが心配してメールをくれたことがありました……。)

 ホームページや電子メールを使っていても、そこに現れる僕の姿は、僕本来の姿のごく一部に過ぎません。僕の個人的な生活や悩みは、そこには現れてこない。電子メールにしろ、携帯電話にしろ、ポケットベルにしろ、その人間関係は「点」でしかつながっていないのです。でも現代に生きている僕たちは、その「点」を人間関係のよすがにして行くしかない……。

 この映画でも、3人の登場人物たちは、互いのことをほとんど何も知らないまま親しくなって行きます。そしてある一線から向こう側には、決して踏み込まない。これは「踏み込もうとしない」のではなくて、「踏み込むことがあらかじめ拒絶されている」ようにも見えます。僕はこうした関係に共感を持つ。世の中には電子メールのやり取りから結婚しちゃう人もいるみたいですが、僕はそんなの信じないからなぁ……。


ホームページ
ホームページへ