7本のキャンドル

1998/09/02 東和映画試写室
故郷の村から病気治療のために連れてこられた妹を見守る少年。
イランの市井の生活がていねいに描かれている。by K. Hattori


 『かさぶた』と同じアボルファズル・ジャリリ監督の作品。1994年製作のイラン映画だ。原因不明の病気で全身麻痺になった妹を助けようと、少年がありとあらゆるてだてをつくす話だが、映画のあちらこちらに、現代のイランの生活や独特の風俗習慣が見えて面白い。日本人にとって、イスラム圏、しかもイスラム原理主義国家のイランというのは気持の面でもっとも遠い国かもしれませんが、キアロスタミの映画やこの映画を観ると、信じる宗教が違い、生活習慣が違っても、家族を思いやる人間の気持は万国共通だということがよくわかる。この映画も特別大きなドラマがあるわけではないのですが、小さなエピソードのはしばしに、素直に胸を打つシーンがあって感動しました。主人公が少年ということもあって、特に感情移入してしまうのかもしれないけどね。僕って子供や動物に弱い、単純な観客ですから……。

 舞台になっているのはテヘランらしいのですが、僕は「テヘラン」という土地を、今まで名前しか知らなかった。この映画を観ると、テヘランが大都会だということがわかる。でも同時に、路地を牛が歩いていたりするのです。この映画は、地方からテヘランに出稼ぎに来ている労働者たちや、路地の奥で暮らす普通の庶民の生活を丹念に描いている。また、大病院で働く医師の個人宅など、インテリや金持ちの生活ぶりも描いている。病気を治そうとする呪術師や民間療法も出てくれば、CTスキャナなどの最新設備を誇る大病院も出てくる。僕はこうして古いものも新しいものもごちゃ混ぜになっているイランという国を見て、なんだかすごいと思ってしまった。

 この映画の中では、まじないも最新医療も水平の価値基準しか置かれていない。「まじないは古い迷信で役に立たない」「欧米式の最新医療は科学的で役に立つ」なんて図式は成り立っていないのです。全身麻痺の続く少女は、まじないでも最新医療でも癒されることがない。「耳なし法一」のように少女の全身に呪文を書きこむことも、CTスキャナでの分析や電気ショック療法も、少女を治したいという意味ではまったく同じであり、少女を治せなかったという意味ではまったく同じ。どちらも同じように「役立たず」なのです。

 少女の父親が治療をあきらめて村に帰ろうとする前夜、少年が外国人医師のところにすっ飛んで行く場面は感動的だし、少しずつ貯めたお金をはたいて子牛を買い、願かけの肉として近所に配って歩くシーンもよかったと思う。人間は、自分の愛する人のためならどんなことだってするものなんですね。子牛を犠牲に捧げる習慣がわからなくても、この映画からは少年の気持がしっかりと伝わってくる。その少年の気持に少しでも応えてやりたいと願う、近所の大人たちの優しさも伝わってくる。全身が麻痺したひとりの少女を通して、ひとりの人間の周囲に、それを見守る人が大勢いることが見えてくる。人間は助け合って生きている。支えあって生きている。そんな単純なことが、映画の優しい後味を生み出すのです。

(英題:Det, Means Girl)


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