男性・女性

1998/07/16 シネカノン試写室
ジャン=リュック・ゴダールが'65年に撮った軽い青春スケッチ。
当時の時代風俗がよく描けていると思う。by K. Hattori


 今年はなぜかやたらと、ゴダールの映画を観ることが多い。『女は女である』『ゴダールのリア王』『中国女』、そして『男性・女性』。「ゴダールは難解」「ゴダールはつまらない」という偏見や先入観があって、それまでまったく彼の映画を観たことがなかったんですが、今こうして作品を観ると、別に難解でも何でもない。もちろん、製作当時のゴダールの思想や、作品の政治的メッセージまで読み取って行くのなら、これは結構大変な作業になると思うのですが、1998年の今、30年以上前に作られた作品の政治メッセージを解読したって意味ないよ。ゴダールにかぶれた映画青年や研究者ならともかく、普通の観客がこれらの映画から読み取るべきは、作品に盛り込まれた奔放な映像テクニックだけです。

 ゴダールが生み出した即興的な映画演出手法は、その後の映画製作者たちに多大な影響を与えたし、今もその影響は脈々と生き続けている。少なくともテクニックの面だけで映画を観ると、映画には「芸術」と「娯楽」の違いなんてまったくないわけで、ゴダール的な手法は世界中のあらゆる映画作家に模倣されているのです。例えば、徹底して娯楽映画路線を突き進むクエンティン・タランティーノの映画の中に、ゴダールからの影響を見ることだって出来る。タランティーノに限らず、低予算のインディーズ映画作家から出発した人は、ほぼ例外なくゴダールの演出法をなぞってしまうのです。今回『男性・女性』を観ても、「あ、映画ってこんなに簡単に撮れてしまうんだね」と思わせるところがあるもんね。お金はかかっていないし、物語もポンポン飛ぶ。それでも、この映画はきちんと作品になっている。

 現代人はこの映画に描かれているような政治的、社会的状況と無縁なので、この映画にちりばめられている政治メッセージは、今や完全に「時代風俗のイコン」と化している。これはこれで、'60年代パリの風俗描写として面白いけどね。この映画の翌年製作された『中国女』まで行ってしまうと、映画の大半が政治メッセージの朗読になることで、逆に映像テクニックが前面に押し出されてきて面白い。乱暴な言い方をすれば、思想や政治メッセージも風俗なのかもしれない。普通の映画からはこぼれ落ちてしまう「時代の気分」みたいなものを、この映画はフィルムに定着させているのかもしれない。でもファッションと違って、'60年代に世界中の若者を熱狂させた左翼思想が復権することはないでしょうね。だからこそ、現代の観客はゴダールの映画にある政治臭を遠巻きに眺め、映像テクニックだけに触れることが可能なのです。たぶん発表当時の観客は、そうした覚めた態度でこの映画に接することが出来なかったはずです。

 映画の表現様式は、さまざまな作品が生み出したテクニックの集積の上に成り立っている。最新の作品には、映画百年の歴史がすべて詰まっているのです。でも、それは結局「ブレンドウイスキー」なんだよね。ゴダールの映画は、混じり気なしのピュアモルトです。

(原題:MASCULIN FEMININ)


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