蜘蛛の瞳

1998/02/20 徳間ホール
『蛇の(へび)の道』に続く黒沢清&哀川翔のコンビ作。
漂う倦怠感が独特のムードを生む。by K. Hattori



 『蛇(へび)の道』に続いて、黒沢清監督が哀川翔主演で撮ったサスペンス映画。殺された我が子の復讐を終えた男が、日常に回帰することなく、ずるずると暴力の世界に留まってしまう物語だ。哀川翔扮する主人公の名前が「新島」なのは『蛇の道』と同じ。殺された娘の復讐という部分で2本の映画はつながるが、新島の職業が前作の塾講師から変更されているところを見ると、どうやら完全な続編というわけでもなさそうだ。共通点と相違点が微妙に響きあいながら、2本の映画は相互に補完するパラレルワールドのようになっている。前作が「蛇」で今回が「蜘蛛」。この映画は『○○の××』というタイトルで連作されて行くのかもしれない。(例えば『貉(むじな)の穴』といった具合にだ。)

 今回の映画は、共演がダンカン、寺島進、大杉漣といった顔ぶれなので、まるで北野武の映画に哀川翔が迷い込んだような気がする。芝居がベタベタせずにぶっきらぼうなところや、タイミングを外した暴力描写なども、北野映画との共通点かもしれない。ガランとしたセットや、スカスカな空間処理なども、北野映画につながる冷たさを感じさせるが、これは監督の趣味というより、低予算を逆手に取った苦肉の策だと思う。『CURE/キュア』にはもっと別のテイストがあった。全体に画面がざらざらしているのは、おそらく16ミリで撮影しているためだと思う。これを35ミリで撮ると、無言の「間」が生きてて、もっと面白い映画になっただろう。

 殺しの請負という、緊張感に満ち、殺伐とした世界を扱った映画なのに、全体に漂う倦怠感。主人公は特に主体性を持つことなく、周囲の状況に流されて行く。流されるというより、一ヶ所で足踏みを続ける主人公の周囲で、状況だけが勝手に目まぐるしく変わり、事件は起き、勝手に収束してしまう印象だ。流れの中に立つ、一本の棒杭が主人公。しかし動かない棒杭の周りでも、水は渦を巻くものです。主人公が組織の中に入ったことで、ダンカン扮する岩松の中には、野心が大きく膨れ上がって行く。しかし主人公は、そんな野心に無縁なのです。彼はたまたま殺し屋をやっているが、それはそういう水が流れてきたからそこに入り込んでいるだけで、別の水が流れてくれば、彼はそちらに染まるでしょう。

 組織を裏切った岩松を殺せと命令された主人公に、岩松の愛人でもある女が「新島さんの言うことは何でも聞くから、岩松を見逃して」と懇願する場面がある。しかし、抱き合い唇を重ね会うふたりの姿に、エロス的な匂いを嗅ぎ取ることはできない。椅子に腰掛けた新島の前で、全裸でベッドに横たわる女の姿からも、ふたりが果して性的関係を持ったか否かは読み取れなかった。要するに、主人公にとってこの女などどうでもいいのです。彼がこの女と寝ていようが寝ていまいが、彼が最後にとった行動には少しの違いも生まれなかったでしょう。

 脚本は西山洋一と黒沢清の共同。物語としては『蛇の道』に比べると、やや平板な印象も残る。


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