炎のアンダルシア

1998/02/18 東宝第1試写室
12世紀のイベリア半島をイスラム側から見た歴史ドラマ。
人物が多くて関係がわかりにくい。by K. Hattori



 現在のスペインの南半分がイスラム帝国の領地であった12世紀のアンダルシア。フランスの宗教裁判所から異端の烙印を押され、焚書・火刑にあった学者の息子ジョゼフは、イスラムの学者アベロエスのもとに身を寄せる。だがその頃宮廷では、権力の座を狙う大臣リヤードが、カリフであるマンスールを失脚させようと暗躍していた。リヤードにとって、王の参謀格であるアベロエスは目の上のこぶ。彼は原理主義者のセクトを後ろ盾に、まずはアベロエスを失脚させようとする。だがアベロエスを慕う教え子たちは、アベロエスの著作を複写して各地に送ることで、これに対抗しようとする。

 主要登場人物は、すべて歴史上に実在した人物たちだそうです。カリフ・マンスールも当然実在したし、アベロエスも実在の哲学者。彼の著書が異端として焚書の憂き目に遭ったのも、実在の話だという。当時のアンダルシアに、原理主義者の過激な組織があったのも事実らしい。ただし何しろ物語は12世紀ですから、細かなところまでは当然資料が揃っていない。そこを映画作家のイマジネーションが補っているのは当然です。

 カリフの次男が原理主義セクトの甘言につられて入信し、狂信の暗殺者になるというエピソードは、日本のオウム事件を連想させます。しかしこの挿話は、現在のエジプトにも広い勢力を持つ、イスラム原理主義者たちを念頭に描かれたものです。つい先日、エジプトのルクソール遺跡で観光客が多数射殺されたのは記憶に新しい事件ですが、あの事件の犯人たちが原理主義者です。つまりこの映画に描かれているセクトは、現代のエジプトでは「歴史上の一時期に現われた奇形集団」ではなく、今まさにエジプト社会の中に巣食う問題なのです。そう考えると、この映画がいかに過激な作品かがわかります。この映画の製作者たちは、命懸けでこの映画を作っている。実際この映画の監督ユーセフ・シャヒーンの前作『移民』は、原理主義者の弁護士に訴えられて、数年の間上映が差し止められてしまった経緯があります。

 歌と踊りが要所要所で大きな役割をする点や、メロディがうねるオリエンタルな音階の印象が、歌と踊りがたっぷり詰まったインドのマサラ・ムービーを連想させます。『ムトゥ/踊るマハラジャ』や『ボンベイ』に続き、『炎のアンダルシア』も交えて、今年はオリエンタル・ミュージカルのブームが起きるだろうか? もっともこの『炎のアンダルシア』にはインド映画的な荒唐無稽さや、全編を歌で覆い尽くしてしまうバカバカしさはなく、あくまでも劇中でジプシーたちが得意の歌を披露するという展開。ミュージカルというより、単なる音楽シーンに近いのかもしれない。しかし、ビスタサイズの画面に展開する歌と踊りをカメラに収めるセンスや、全体の振付などに、往年のMGM映画の面影を感じるのは僕だけではないでしょう。この場面だけ切り取って『ザッツ・エンターテインメント』の中に放り込んでも、たぶんあまり違和感はないように思います。

(仏題:AL MASSIR)



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