マイケル

1997/05/19 丸の内ピカデリー1
ジョン・トラボルタ扮する中年太りの陽気な大天使マイケルが大活躍。
『めぐり逢えたら』のノーラ・エフロン監督最新作。by K. Hattori



 『めぐり逢えたら』のノーラ・エフロン監督、待望の新作公開。ジョン・トラボルタが大天使マイケル(ミカエル)を好演。共演はアンディ・マクドウェル、ウィリアム・ハートなど。物語のアイディアは悪くないし、決して面白くない映画ではないのだが、演出テンポに『めぐり逢えたら』の軽やかさはない。もっとも、これがノーラ・エフロン本来の演出で、『めぐり逢えたら』だけが特別だったのかもしれない。

 ノーラ・エフロンの演出は、細かな芝居の見せ方が丁寧だし、上手いと思う。キャラクターには奥行きがあるし、日常的なリアリティを感じさせもする。一流のファンタジーにはリアリティが不可欠だけど、それを地力にして、どこかで日常のリアリズムから離脱しなければならない。そこには何か仕掛けが必要なのです。『めぐり逢えたら』でそれを可能にしていたのは、途中に挿入されるアニメーションであり、電話という小道具であり、子役の存在であり、エンパイアステートビルというロケーションだった。でも『マイケル』にはそうした工夫がもうひとつ足りず、日常性から離陸できないままだ。

 そもそも「アイオワのモーテルに天使が住んでいる」という設定そのものが非日常なのだが、ノーラ・エフロンは天使という非日常を、日常のリアリズムの中に難なく着陸させる。これはこれで、すごいことだと思う。ここからホップ・ステップ・ジャンプでファンタジーの中に飛び出せれば、映画は大成功。だが映画『マイケル』では、地上に降りた天使がそのままずぶずぶと日常の中に留まり続け、いつまでたってもファンタジーの世界に飛び立ってくれないのに戸惑ってしまう。『マイケル』の印象は、ノーラ・エフロンのデビュー作『ディス・イズ・マイライフ』により近いものだ。

 僕は映画の結末が納得できなかった。天使マイケルとの旅で、新聞社の三人は何かを得たはずなのに、それがその後の人生に少しも生かされていない。結局彼らの生き方を変えるには、再びマイケルの手助けが必要なのだ。これじゃ、何のためにマイケルと旅をしてきたんだかわからないじゃないか。人間は常に他からの働きかけや手助けがない限り、自分の生き方を変えられないんだろうか。心温まる友情の記憶や、忘れ得ぬ体験も、日常生活の中では色褪せて意味を失ってしまうのだろうか。

 僕だって日常生活の中で、心温まる経験をしたり、自分の生き方に疑問を持つような出来事に出くわすことがある。テレビや新聞や雑誌の記事に、思わず涙してしまうこともある。映画を観ても、よく泣く。でもそれが僕の人生を変えることは、ほとんどない。映画『マイケル』に出てくるウィリアム・ハートやアンディ・マクドゥエルも同じです。彼らもマイケルと別れてしまえば、それまでの気持ちを失ってしまう。僕は彼らに、マイケルの手助けなしに、マイケルの想い出だけを通じて結びついてほしかったのです。この映画の中には、人生を変える魔法のような一瞬がない。そこが悲しいのです。


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