TOKYO BEAST

1997/05/15 PARCO Space Part3
こんなものを「映画」と呼んではいけない。ビデオで遊んでるだけです。
間違いなく、これが本年度のワースト1作品。by K. Hattori



 僕はどんな映画を観ても「観るんじゃなかった」とか「金返せ」とは滅多に書かない人間ですが、この映画に関しては声を大にして言いたい。こんな映画は観るべきじゃなかった。入場料も騙し取られたようなものです。『WILD LIFE』の夏生ゆうなに惹かれて観てしまったという、僕のスケベ心が責められるべきなのか。いや、これは余りにもひどすぎる。こんなものを「映画」と銘打って上映してしまうことが、そもそも詐欺に近いのです。表現は自由ですから、どんな映画を作ろうとそれは作り手の勝手。でも一般の客から金を取ろうとするなら、もう少しそれなりの自覚を持ってもらいたい。

 そもそもこの映画は「映画」ですらないんだよ。ほとんど90%以上がビデオ撮り。しかもビデオで撮る必然性がまったくないビデオ映像なんです。単に金がなかったとか、そういう理由かな。でも今どこの独立プロだって金がない中でフィルムをかき集め、それでちゃんとした「映画」を作ろうとしている。「金がないからビデオで撮りました」は言い訳にもならない。単なる手抜きです。労を惜しんだのです。ビデオで撮影してものを「映画」として上映するのは、観客を馬鹿にしているのです。

 僕はビデオというメディア自体を否定しているわけではないけれど、少なくとも「映画」を作るにあたって、撮影媒体に「ビデオ」を使うなら、そのための必然性がほしいのです。例えばものすごく小規模でプライベートな撮影にはビデオの方がいいでしょうし、特に機動性を要求される撮影もビデオの方が分がいいかもしれません。でもこの『TOKYO BEAST』には、そうした「ビデオであるための必然性」が皆無です。ビデオで撮ったこともあって、画面には艶がないし、ボンヤリにじんでるし、ヒロイン夏生ゆうなの顔もでこぼこだらけに映ってます。

 ビデオという点に仮に目をつぶったとしても、この映画はひどい。エピソードを細切れにし、時系列を再配置してつなぎ直すという手法も、無目的にただ「手法」として使っているから意味がない。物語はただ1ヶ所で堂々巡りを続け、いつまでたっても先に進んで行かない。こういうのは、ウォン・カーウァイの悪しき影響だな。

 僕はこの映画を通じて、作り手が何を観客に伝えようとしているのかまったく理解できなかった。そもそも、この映画の中には、伝えるべき何かがあるのかさえ疑問。描かれているのは風俗だけで、そこに内在する普遍的なものなど見えてこないではないか。おそらく作り手側も、自分たちが何を描きたいのかわかってないんだよ。対象をつかみきれないまま、ただ表面的に「漂流する若者像」みたいなものをでっち上げているだけ。登場人物の会話や行動にリアリティが感じられないのは、作り手自体がそれをリアルだと感じていないからでしょう。何か伝えたいことがあれば、作り事である映画の中に、作り事ではない何かを込めることができるんだけど、この映画の作り手にそうした指向はない。映画はひたすら空虚な空回りを続け、観客の時間だけを浪費させる。


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