酔いどれ天使

1997/05/05 並木座
黒澤初期の習作。三船敏郎が黒澤映画にデビューする。
未完成な映画に黒澤のルーツが見える。by K. Hattori



 未消化で未完成な映画だと思うんだけど、そうした欠点が黒澤明という監督の資質を垣間見せてくれて面白い。この映画でやろうとしてできなかったことが、これ以降の作品でちゃんと身になっているのだから、「失敗は成功の母」という格言の正しさが立証されています。

 この映画最大の失敗は、志村喬がミスキャストだったことと、新人の三船敏郎に引っ張られて、映画があらぬ方向に流されてしまったこと。早口で怒鳴り合う志村と三船の芝居は、映画の尺を縮めるという物理的な制約から出たものらしいのですが、一本調子でまとまりのないものになった。それぞれのキャラクターが、緩急のない早口の台詞のせいで余計に薄っぺらになってます。

 コンビのひとりが早口でしゃべるなら、もうひとりはゆったりとそれを受け止めなければならない。この教訓が、後に『野良犬』の志村三船コンビに生かされています。『酔いどれ天使』も『野良犬』も映画の中の季節は真夏ですが、前者は真冬に撮っていたせいで、会話場面では口から出る息が白くなってます。真冬に真夏の演出を練りに練っていたおかげで、『野良犬』のうだるような暑さを演出する術を学んだのでしょう。

 黒澤映画が他の映画から受けている影響が、この作品には比較的ストレートに反映されています。特にヨーロッパ映画の影響は強い。例えば、刑務所から帰ってきた岡田が、ギターでつま弾く「人殺しの唄」が、シナリオ段階ではブレヒト・ワイルの『三文オペラ』のテーマ曲「メッキー・メッサーの唄(マック・ザ・ナイフ)」だったこと。傷心の松永が闇市を歩く場面で「郭公ワルツ」を流すアイディアのもとが、ソ連映画『狙撃兵』であったこと。極端なのは熱にうなされた松永が見る幻想の中で、自分自身の姿をした死神に追いかけられるくだり。これなんて表現主義じゃないのかな。

 黒澤明本人としては、この映画をそれまでの自分の集大成のつもりで作ったのでしょうが、結果として意欲が空回りしている感は免れない。後の黒澤映画を知っている人間から見ると、この映画は「黒澤初期の習作」という位置づけになってしまう。芝居の演出なども、この映画はちょっと大袈裟なところが目につきます。最後の山本禮三郎と三船敏郎の対決も、息を切らした山本が犬のようにハアハア舌を出してあえぐ様子など、僕はやりすぎだと思うんだけどなぁ。

 黒澤の自伝によれば、志村喬扮する真田という医者のモデルは、横浜にいた娼婦相手の無免許医者だったそうです。脚本を書いていた黒澤と植草圭之助は、主人公の人物造形に行き詰まった時、ふとこの男のことを思い出して突破口にした。ところが、その人物像は志村喬には共有されていなかったのです。結果として真田は松永に押されて、影が薄くなってしまった。監督の頭の中であまりにも生々しい人物像があったために、それが俳優に伝わりきらなかったのかもしれない。松永にもモデルがいるのですが、彼は脚本である程度整理されています。


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