[Focus]

1997/05/03 有楽町朝日ホール
(日映協フィルムフェスティバル'97)
テレビ局のはしゃぎすぎた取材が悪夢のような一夜を生み出す。
浅野忠信主演の小品だが力強さは天下一品。by K. Hattori



 この映画を観ると、浅野忠信のすごさをつくづく感じます。徹頭徹尾作り込まれた芝居のはずなのに、浅野の演技はじつに自然で、作為の匂いをまったく感じさせない。台詞の裏側にある人物の内面を、リアルに感じさせることができる俳優です。人間の台詞って、その人が考えていることのごく一部が表に浮かび上がったものですよね。ひとことの台詞の後ろには、台詞にならなかった、その何倍もの言葉がひしめき合っている。浅野忠信は、そうした言葉のせめぎ合いをきちんと観客に伝えます。

 劇場公開時に観逃したことが悔やまれていた映画のひとつだったので、今回スクリーンで観られたのは幸運です。報道番組の取材クルーが、取材行為の行き過ぎから犯罪の当事者になってしまう話です。当然そこにはテレビ番組制作に対する批判的な視点なども盛り込まれているのですが、そこばかりを強調するのは日頃テレビに不快感を持っている活字媒体、特に新聞的な見方だと思いました。この映画の面白さは、突発的な事件をきっかけに、取材する側とされる側との立場が逆転するところでしょう。これがじつに痛烈で辛辣なんです。

 それまで取材される側だった浅野忠信がカメラの支配権を握り、テレビクルーたちの前で取材態度のパロディを演じてみせるくだりは、ホールの中が常にクスクス笑いで満ちていました。カメラに向って立ち位置を確認したり、カメラアングルを指示したりする様子は、それが緊迫した場面であればあるほど滑稽です。この映画は取材する側とされる側が反転した取材風景のカリカチュアを存分に見せた後、最後にはさらにそれを反転させてみせる。これはなかなか切れ味の鋭い構成だと思います。

 二転三転する物語の中で、常に一定の距離感で事態の推移を記録しつづけるカメラ。これこそが、この映画の本当の主人公かもしれません。この映画の中でことの成り行きもっとも冷静に眺めているのはカメラマンですが、彼の声は出てきても、彼の姿は一度も現れない。彼はものすごく覚めた目で、出来事に対処している。彼も紛れもない当事者のひとりなのに、その口調は第三者のそれです。これが結構恐い。カメラを持っていると、人間は自分の身の危険を感じなくなってしまうのかもしれませんね。ずっと以前、ヘリコプターで取材中にヘリが湖に墜落し、溺死したカメラマンがいたんです。その人は、ヘリがぐんぐん水面に近づき、着水するその瞬間までカメラを回していた。雲仙普賢岳の火砕流でも、迫り来る火砕流を前に、猛スピードで逃げながらしっかりカメラは回ってましたもんね。

 荘子の中に「機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり」という言葉があります。機械を使っている内にやがて人間は機械に使われるようになり、機械にあわせて物事を考えるようになる。それは人間として恥ずかしいことなのです。この映画の中でも、最後の最後にもっとも羞恥心が欠如していたのは、ディレクターではなくてカメラマンだったかもしれません。


ホームページ
ホームページへ