羅生門

1997/04/21 並木座
芥川龍之介の「薮の中」を原作にした人間心理のミステリー。
黒澤明の昭和25年作品。撮影は宮川一夫。by K. Hattori



 昭和25年に黒澤明が大映で撮った問題作。芥川龍之介短編小説「薮の中」を、橋本忍と黒澤明が脚色。映画冒頭で杣売がつぶやく「わからねえ……さっぱりわからねえ」という台詞同様、昭和25年当時の観客にはこの映画の意味がさっぱりわからなかったらしい。観客だけではない。映画を作っていたスタッフや映画会社の重役連中も、映画見巧者の評論家たちも、この映画がさっぱり理解できずにいた。この映画の後に、よりにもよって松竹で『白痴』を撮ってしまった黒澤が、しばらく映画界から干されていたというエピソードが、黒澤の自伝「蝦蟇の油」には書いてある。『羅生門』がベネチア映画祭でグランプリを取らなかったら、後の『七人の侍』や『生きる』や『用心棒』はなかったかもしれない。

 今この映画を観ると、テーマも話の筋立ても単純で、これほどわかりやすい映画はないと思うんだけどね。言わんとしていることはすべて台詞に現れているから、少なくとも物語に関して誤った解釈が発生する余地はない。芥川の原作との相違は、最後の杣売のエピソードの有無で、このエピソードで黒澤は三者三様の証言の実態を、ちゃんと映像として見せている。この最後のエピソードにも嘘があるのではないかと考えるのは、それこそ考えすぎというものでしょう。

 黒澤がこの映画で描きたかったのは、この単純な物語をどう映像化して行くかという1点だけだった。森の中の木漏れ日の美しさ、淡々と流れるボレロのリズム、汗まみれになってぶつかり合う男と女のドロドロとした情念の渦。木立のむこうにチラチラと太陽が直接顔を見せる描写や、大きな鏡をレフ板に使ったコントラストの強い映像など、宮川一夫カメラマンの作り出す艶のあるモノクロ画面は今観ても美しい。昼寝をする多襄丸の顔にかかる葉の影をゆらゆと動かして森を渡る涼風を感じさせる部分などは、ドキリとするほどでした。

 エピソードの中では最後の「真相」が一番人間の残酷さや醜さを表現していて面白い。ここは黒澤のオリジナルですから力が入ったのでしょう。ただし男が二人傍目にはみっともない格闘を演ずるという描写は、昭和23年の『酔いどれ天使』で既に描かれているもの。刀をぶるぶる震わせ、泥を撒き散らし、逃げ腰になりながら無様に殺し合う三船敏郎と森雅之より、ペンキまみれで組み合う三船と山本礼三郎のほうが、映画としての芸があったと思うんだけどなぁ。『酔いどれ天使』のクライマックスは繰り返しの鑑賞にたえるけど、『羅生門』の斬り合いは新鮮味がなくて冗長に感じます。

 羅生門の捨て子を巡る最後のオチは、いかにもとってつけたようなヒューマニズム。赤ん坊を抱いて涙ぐみながら向かい合う志村喬と千秋実のツーショットは、どう見てもうそ臭くてしょうがない。黒澤はラストを羅生門の上の入道雲で終らせたかったそうですが、天候の具合が悪くてそれは実現しなかった。もしそれが実現していたら、映画の印象はまた違っていたことでしょう。


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