魔子恐るべし

1997/04/16 大井武蔵野館
山育ちの娘、根岸明美の魅力とパワーが不発に終っている。
昭和29年の鈴木英夫監督作品。by K. Hattori



 昭和29年の東宝映画。監督は鈴木英夫。主演は根岸明美。根岸明美は昭和40年の黒澤映画『赤ひげ』で、藤原釜足扮する蒔絵師六助の娘として登場し、じつに印象的な1エピソードを作った女優です。黒澤映画には他にも『どですかでん』にも出演してますが、僕は『赤ひげ』での印象が強い。この『魔子恐るべし』で、根岸は田舎から東京に出てきた純朴な娘を好演しています。

 エピソードの組み立てや周りの人物の性格付けの弱さがたたって、映画自体はそんなに面白いものにはなっていないのが残念。ヒロインの魔子は山育ちで純真無垢。男に媚びる色気とは無縁だが、伸びやかではちきれんばかりの肉体は意図せずしてエロそのもの。人を疑わぬ素直さは、無防備さと裏腹。田舎育ちの健康優良児は、腕力で男をもしのぐパワーを見せる。要約すれば、「女・金太郎」みたいなキャラクターですね。

 信州の田舎から東京に住む福田という絵描きをたずねてきた魔子が、都会の小ずるい男たちの甘言にのり、幾度も訪れる貞操の危機を乗り越えながら、結局最後まで福田に会えなかったという物語。最後に「魔子よどこへ行く?」という字幕が出た時は、「え〜、これで終りかよ」と半ば呆然としてしまった。これじゃ何のために映画を観ていたんだか、まったく釈然としないぞ。

 最後まで魔子と福田が巡り合えないところからして、この映画が「魔子と福田の再会」を描くことを目的としていないことは明らか。描きたいのは、田舎娘が出会う東京の汚く浅ましい人間たちの姿であり、都会と田舎とのカルチャーギャップが持つおかし味でしょう。都会の汚い人間たちとして、魔子を毒牙にかけようと狙う井田組のやくざや、ノミ健たち愚連隊、ストリップ劇場の作家・丸目などがいる。カルチャーギャップの最たるものは、魔子がプロレスの試合に飛び入りする場面であり、留置場の中で他の女たちと頓珍漢な問答をする場面でしょう。しかしこうしたひとつひとつのエピソードに切れ味が乏しく、映画は全体の焦点がぼけて、ひとつも面白味のないものになってしまった。

 魔子を食い物にしようと近づいたものの、逆に彼女の純真な心に感化され、悪から善へと180度方向を変えるのが、森繁扮する山カンという人物。井田組四天王のひとりと恐れられながら、普段はお姉言葉でしゃべるこの人物は、映画の中でもっとも魅力的な男です。ところがこの山カン、映画の中盤以降、ほとんどいいとこなしなのです。普通は後半で物語にがっちりとからんでくると思うんだけど、途中から存在感がフェードアウト。

 魔子のお目付け役として登場する藤原釜足も、いざという時にはまったく役に立たない人物です。こういう小者が活躍してこそ、この手の映画は生きてくると思うんだけどなぁ。全体にいいネタなんだけど、全部が不発に終った感じ。唯一面白かったのは、魔子が出演するヌードショーのタイトル「野生マンボヶ丘」と、看板のコピー「水爆的新星」だけであった。トホホ。


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