コーカサスの虜

1997/04/02 銀座テアトル西友
チェチェン人の捕虜になった若いロシア兵の目に映る戦争の愚かしさ。
恩讐を超えた人間の気高さは戦争に押しつぶされる。by K. Hattori



 月に1度の映画の日に、せっかくだから何か観ようと出かけた映画です。平日の昼間だというのに、映画館の混んでること。上映間際に行ったら、補助椅子に座らされてしまいました。劇場側も急遽1回ごとの入れ替え興行に切り替えたりで、てんてこまいのご様子。これから毎月第1水曜日はこんな調子なのか、それとも学校が春休みだという影響もあるのか……。何はともあれ、混んでいる映画館で映画を観るのは、たとえ正規の席に座れなかったとしても(立ち見だったとしても)そんなに悪い経験じゃありません。僕には「映画館といえば空いているもの」という先入観がありますからね。

 この映画は、アカデミー賞の外国語映画部門にノミネートされてました。トルストイの短編小説「コーカサスの捕虜」を原作に、舞台を現在のチェチェン紛争に置き換えたドラマ。チェチェンに派遣されたロシア軍の新兵が、古参の兵と二人で捕虜になります。二人を捕らえた老人は、このロシア兵と引き換えに、捕らえられている息子を救出しようと考えている。捕らえられた兵士とそれを監視するチェチェン人たちとの交流。特に新兵ワーニャとチェチェン人少女のやりとりが印象的です。

 ワーニャは、徴兵検査が終って前線に配属されたばかりの新米兵士。武器の取り扱いにも慣れず、実際の戦闘にも参加したことがありません。彼が捕えられたのは不運としか言いようがない。これではまるで、捕虜になるためだけに戦場に出たようなものです。ワーニャはチェチェンの人たちに対して、何の恨みも憎しみも抱いていない。チェチェン人たちも、二人の兵に格別の恨みはない。ただ捕虜交換のための駒として、彼らは捕えられている。互いに縁もゆかりもない人間たちが、お互いを物のように扱う不条理。でもこの不条理が、戦争の実態を象徴的に表わしているのです。

 スクリーンに映る風景がじつに美しかったことも、戦争の理不尽さを際立たせています。山の上にあるチェチェン人の町は、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』に登場する町みたいに見えました。すべてが人間サイズで、暮らしやすそうな町です。変な話ですけど、世界中では今でもこうした美しい風景の下で、人間たちが素朴に殺し合いをしているんですね。少し前に観た『ビフォア・ザ・レイン』という映画はボスニアの紛争を背景にしたドラマだったけど、風景と殺し合いの対比という意味では、この映画にも似た印象があります。

 小さな人間の努力をすべて無にするかのような、戦争の愚かしさと残酷さ。無情に飛び去るヘリコプターの向こうには、目先の復讐と人間不信しかありません。

 この日はどうも体調が悪くて、映画館で席についた途端に眠くなり、鞄の中に常備してあるカフェインの錠剤を2つばかり飲み下しても効果なし。途中何度かウトウトしてしまうという体たらくでした。おかげで映画の中の重要な場面を、ひょっとしたらいくつか見逃してしまったかもしれません。まったく情けない。


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