醜(スキャンダル)聞

1997/03/31 並木座
記事を捏造してでも売ろうとするマスコミの下劣さは現代にも通じるテーマ。
バランスは悪いが意気込みと脱線転覆も黒澤らしさです。by K. Hattori



 戦後蔓延したカストリ雑誌の低俗なスキャンダリズムに心底怒りを感じた黒澤明が、「この風潮に歯止めをかけねばならぬ」と息巻いて作った映画だが、出来上がったら何だかヘンテコな映画になってましたとさ……。序盤は現代にも通じるジャーナリズム批判で、あることないこと吹聴して回る三流マスコミの嫌らしさや下劣さを、余すところなく描いていて力強い。報道被害の救済というのは、現代社会の大きなテーマでもあるのです。

 この映画に描かれている編集長の言動は、妙に生々しくてそのまま現在の雑誌編集室などでも語られていそうな台詞ばかり。登場していきなり「僕アね、陰でこんな事してやがる癖に、表向きはすまして片付いてる奴ア勘弁ならねえンだ」と正義派ぶるところがリアルです。テレビのワイドショーだろうが、スキャンダルが売りの雑誌だろうが、当事者はどこかで自分のことを「正義だ」と思いたいんでしょうね。

 その後の台詞も今に通じるものばかり。曰く「記事なんて少し出鱈目でも、活字になりさえすりゃ世間は信用するよ」。記事に抗議されたらどうするかと聞かれて、編集長曰く「誰も読まない様なところへ、謝罪広告を出しゃ、それで済む」「いい宣伝だ」「有り難い事に、俺達の餌食になる様な高尚な連中はね、上品ぶってるから、法律に訴えられることが出来る様な場合でも実際的にそれを適用しようとはしないものさ。せいぜい、気位の高い軽蔑だけで事を済ましちまうンだよ」。どの台詞もじつに生き生きしていています。正義であるはずの主人公たちより、この悪徳編集長の方がよほど面白い。この調子で映画が進んで行けば、面白かったんでしょうけどね。

 この映画の欠点は大きくふたつあります。ひとつは黒澤監督本人が自伝で告白しているように、途中から登場する志村喬扮する弁護士の蛭田に、物語を完全に乗っ取られてしまったこと。悪どいジャーナリズムを懲らしめる話のはずが、途中から蛭田親子のエピソードの比重が大きくなりすぎるのです。だらしない蛭田がどこで善人に立ち返るかという関心が中心になってしまって、いかにしてマスコミと戦うかというドラマが脇に打ち捨てられてしまいます。最後は「僕達はね、今、お星様が生まれるところを見たんだよ」ですもん。なんじゃこりゃ。

 もうひとつの欠点は、三船敏郎演じる画家と、山口淑子演じる声楽家の関係が、中途半端になってしまったことです。ふたりが偶然の出会いとスキャンダルなマスコミ報道、抗議の訴訟などを通じて親しくなって行くのはわかる。だけど、二人の間にある感情が単なる好意なのか、裁判を共に戦う同志のそれなのか、友情なのか、恋愛なのか、さっぱりわからない。もともと脚本には、ふたりの間に恋が芽生えることになってるんです。ところがそれでは、雑誌の記事を結果として裏打ちする形に見えかねないと考えたのでしょう。映画からはその要素が消えている。それでも二人の親しさだけは残っているから、どうにも具合が悪いのですね。


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