おかえり

1997/03/29 アテネ・フランセ文化センター
日常の中で精神を病んで行く妻と、それを見守り共に生きようとする夫。
タケシ映画の常連・寺島進が優しい夫を好演。by K. Hattori



 平凡な日常の中で、いつの間にか精神に異常をきたした妻と、それを見守り共に生きようとする夫の物語。いい映画だとは思うのだが、内容のわりには上映時間が長くて疲れた。中心となる登場人物は夫と妻の二人きり。全体の8割ぐらいは、この二人の芝居だけで占められている。長回しのカットが多いのだが、映画に弛緩した部分がないのは演じている二人の俳優の力だろう。夫を演じた寺島進は、北野武監督作品の常連俳優。いつもはチンピラやくざのような役が多い彼に、こんなしなやかで優しい一面があったことに驚いた。心の病に冒される妻を演じた上村美穂も、日常と狂気の間を揺れ動く人物をじつに自然に演ずる。監督はこれがデビュー作の篠崎誠。映画は各国の映画祭で賞を取っている。

 映画に明快な起承転結を求める向きには、少しなじめない展開かもしれない。映画の最初から妻は心を病んでいるし、映画の最後でもそれが治癒したわけではない。彼女が心を病んだ理由も明確にされないし、夫婦二人の今後の行く末も明らかにはされない。ドラマとしては、こうしたひとつひとつの疑問を明らかにし、結末を明確にした方が親切だろう。観ている観客も安心する。だがこの映画はそうした「わかりやすい物語」を作ることを拒否し、結末を観客ひとりひとりに委ねてしまう。このエンディングを単純なハッピーエンドだとは言えないが、観客に与えられるある種の安堵感や暖かい気持ちは、この終り方が決して「不幸な結末」ではないことを証明していると思う。結末は、何とも穏やかで優しい風景だ。

 今や心の病のは決して不治の病ではないし、薬を使って劇的に症状が改善することも多いようです。しかしこの映画は、妻の症状が改善するに至る前の段階で物語を打ち切っている。病を克服するのではなく、それと共に生きるという姿勢が、現代風の「癒しの風景」なのかもしれません。でも本当はこの後の方が、家族は大変だと思うんです。『男が女を愛する時』というアメリカ映画がありましたが、あの映画はメグ・ライアンがアル中という心の病を克服したところから、本当の家族の物語が始まりますよね。『おかえり』の夫婦も、妻の妄想が治まったところから、家族の中でのケアというものが本格化してくるのだと思うんです。映画はそのあたりの一番苦しい部分をはしょってしまいました。

 一番苦しい部分といえば、妄想に捕らわれている妻をいかにして医者に連れて行くかという部分も、夫婦の愛情や信頼関係に逃げてしまいましたね。この場面は映画の要で、なかなか感動的な場面になっているんですが、監督が演出しているというより、役者の芝居の力でシーンが辛うじて成り立っている感じです。映画の後の監督のトークによれば、この場面は脚本から離れて、役者に自由に演じさせた結果できあがったものだとか……。なるほど、それでこんなにのびのびとしたいい芝居になっているんですね。でもそれは一方で、事前に用意した脚本や演出プランの敗北を意味するんじゃないのかな。


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