フランダースの犬

1997/02/23 ガスホール(特別試写会)
懐かしの名作アニメの劇場版リメイクはゾンビ化していて腐臭がする。
安っぽい企画に安っぽい脚本と演出。安っぽい涙。by K. Hattori



 オリジナルのアニメが放送されたのは、昭和50年のことだそうです。僕は同時期に発売されていた子供向きの原作本(ダイジェスト版)を読んで、声を出して泣いたもんです。当時の僕は図画工作だけが得意な子供でしたから、画家になることを夢見るネロ少年に、いたく感情移入してしまったんですね。家にあった安っぽい印刷の美術全集で、ルーベンスの絵をながめて「これがネロが最後に見た絵か」と思ったらまた泣けてねぇ……。

 数年前ベルギーに行った時、アントワープの教会でルーベンスの本物の絵を見た時は、やっぱり感動しました。教会の固い石の床に立って、「ここでネロとパトラッシュは抱き合って眠るように死んだのだ」と想像すると、やっぱり感動して涙が出そうになった。ネロとパトラッシュの物語は完全なフィクションだとわかっていても、それでも物語にはそうした力があるんですね。

 今回のアニメ映画化は、僕と同じ世代の観客が子連れで映画館に足を運ぶことを当て込んだ企画です。「いつまでも透明な物語」というのは、「無味乾燥で味気がない」という意味なのかもしれませんね。僕はこの映画、ぜんぜんダメでした。そもそも「あの感動をもう一度」という企画なら、なんでテレビと同じ主題歌を使ってくれないんだ? 僕はあのテーマ曲が流れるのを、今か今かと待ってたのに……。

 内容が子供だましもいいとこ。ネロとパトラッシュの悲劇を、「ふたりが死んじゃってかわいそう」という、誰にでもわかるレベルにまで引き摺り下ろしてた脚本。ふたり(と言っても少年と犬だけど)が死ぬのは最初からわかっていたことだけど、それを回避し得ない必然として描くからこそ、悲劇はより大きくなるんだよ。この映画の中で、ネロは死ぬ必要があったのか? 他に彼が生きて行く方法はなかったのか? そうした疑問、生きるための抜け道を、ひとつひとつ丹念につぶしていかなければ、物語は嘘になる。悲劇は成立しないのです。

 例えばネロのおじいさんが死にます。彼の葬式は誰が出したんでしょう。教会の墓地に葬られたようですが、だとしたらネロの周りにはまだ人がいるってことですよ。風車小屋が焼け落ちた後、ネロの牛乳配達を妨害したのは誰なのか。ネロは拾った金を届けた後、なぜアロアの家にとどまらなかったのか。そうした小さなエピソードがいちいちずさんで、必然性も説得力もないんだよね。

 パトラッシュの元飼い主とネロたちが市場で追い掛けっこをする場面に、いったいどんな意味があるのか。最後にCG使う金があったら、風車が回る場面でパースが歪むのを防ぐのに使ってほしかった。こうした細かいごまかしが、映画全体を駄目にしているんですよ。

 ところで同じウィーダの原作を、現在ハリウッドで映画化しています。監督はケヴィン・ブロディー。出演はジョン・マルコビッチ、ハーレイ・コメット、リチャード・ハリス。日本では多分、来年の公開でしょう。アニメより、こっちの方が面白いかもよ。


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