虹をつかむ男

1996/12/29 丸の内松竹
西田敏行を主演にした痛々しい寅さん映画の縮小再生産。
あまりに無茶苦茶で目も当てられない。by K. Hattori



 こういう映画を真面目に作ったのだとしたら腹も立つが、名優・渥美清を失った痛手から立ち直っていない山田洋次が、急場しのぎに作った埋め草映画だと考えればそう苛立つ必要もあるまい。

 映画についての映画である。この手の映画には名作が多いのだが、僕がこの映画を観て感じたことを一言に要約すれば「馬鹿な!」という一言で済ませられる。ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』をやけに持ち上げていたが、トルナトーレには映画というメディアに対する、もっと切実な危機感があるよ。それは『明日を夢見て』などを見れば一目瞭然。それを山田洋次監督ともあろう者が、この甘っちょろさはなんだ。

 「客が入らなくてもいい映画はいい映画です!」という台詞に、主人公が「そうや。客が入って、しかもいい映画が必要なんや」と答えるくだりなど噴飯物。何を今さら当たり前の結論出して喜んでいるんだろう。まるで今世紀最大の発見をしたかのように、大声で騒ぐ話ではないだろう。しかも、これを主人公の台詞にしてしまう欺瞞ぶり。こんな結論は、映画館経営に悩んでいる主人公や、土曜名画劇場の企画メンバーなら、当然共有していなければならないものじゃないか。こんなメンバーで、よく土曜名画劇場なんて企画が続いたものだ。

 商売抜きで、映画のために私財を食いつぶしている主人公。たったひとりの卒業式のために、採算度外視で『禁じられた遊び』を上映するエピソードなど、作り手側は「感動的なエピソード」のつもりで作っているのかもしれないが、こんなものは愚の骨頂。学校関係者は、ここで活男の「好意」に甘えてちゃいけないんだよ。映画産業は関係者の「好意」に甘んじてここまで息を長らえてきたけど、結果としてそれが産業としての弱体化を招いたんじゃないのか。今この時点で、映画のために自腹を切る主人公を、さも美談のように描くなと言いたい。

 「文化に地域格差があってはいけない」という信念で、オデオン座を続けてきた活男。彼の言う文化とは、フィルムをスクリーンに映写するという「映画」だけなのです。なんと傲慢な意見でしょう。この映画には、レンタルビデオも衛星テレビも登場しません。ビデオやテレビと比較して論じることなく、映画の何たるかが語れますか。活男はピザ屋をやる前に、劇場併設でレンタルビデオ屋を作るべきでした。その上で、ビデオと映画とはどう違うのか、ビデオ時代に映画館がどう生き残ってゆけるのかを模索してほしかった。

 物語が完全に寅さん映画をなぞっていることにも腹が立った。『東京物語』からの台詞の引用は許す。無様な『雨に唄えば』も大目に見よう。しかし、西田敏行に『男はつらいよ』をなぞらせて、しかもそれを最後に種明かしして見せるあたりは、あきれて物も言えない。自分で自分の映画を解説してどうする。

 結局これは、渥美清の追悼映画なのです。でも西田敏行じゃ、到底渥美清のかわりにはなれまいに……。


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