鞍馬天狗
龍攘虎搏の巻

1996/12/01 大井武蔵野館
鞍馬天狗が戦う相手は志士を次々手にかける暗殺集団山嶽党。
月形龍之介演ずる老人がいかにも怪しげ。by K. Hattori



 タイトルは『くらまてんぐ・りゅうじょうこはくのまき』と読む。鞍馬天狗は読めるとしても、竜攘虎搏なんて言葉が昭和13年の観客にはルビなしで読めたのだろうか。龍攘虎搏という言葉の意味は、「りゅうととらとが戦うこと。二人の英雄が激しく争うさま。「攘」は払う、「搏」は打つ意。」と岩波国語辞典に書いてある。この映画の場合、ヒーロー鞍馬天狗が龍、志士暗殺をたくらむ山嶽党が虎であろうか。新選組も少し出て来るが、この映画では添え物だな。

 オープニングは空から御札が降ってきて、街中が「ええじゃないか」に包まれる場面から始まる。空に舞う黒い影を見て、僕は最初鳥かと思いました。この冒頭は観る者の度肝を抜きます。自然発生的に発生したええじゃないかの人の群れが町々を埋め尽くす様子は、すごい迫力。大通りから狭い路地、商家の店先から裏長屋、果ては志士たちが密談中の部屋まで、「ええじゃないか、ええじゃないか」と押しかけて来る。この群れのに紛れて志士暗殺が行われるというアイディアは面白い。

 手元の年表によれば、ええじゃないかが起こったのは1867年。慶応3年のことです。この10月には大政奉還。12月には王政復古の大号令がかかって、翌年は明治元年の御維新。時代考証的に見ると、体制はもう決していて、山嶽党が志士暗殺をしても意味がないように思えます。この映画におけるええじゃないかは、あくまでも「幕末の風景」として登場するだけで、特に時代確定を示す物ではないのかもしれません。そういえば、この映画にはおこも姿の桂小五郎も登場します。新選組もいつまで活動していたんだろう。こういうのを調べてゆくときりがないけど、面白いから止められない。

 『龍攘虎搏の巻』と言うわりには、鞍馬天狗対山嶽党の対決には迫力がありません。映画の主軸になっているのは、天狗の連れている子供のひとりが山嶽党首魁の落とし種だという話です。月形龍之介演じる旗本と愛し合い、身ごもった女は姿を消す。女は男に知られることなく子供を産むが、女手ひとつでは育てきれずに越後獅子の親方に子供を預けてしまう。それが天狗のもとにいる子供のひとりです。月形は自分の子供と知らぬまま、天狗の連れている子供を鉄砲で撃ったり、かどわかして殺そうとする。知らぬとは言え、愛した女と自分の子を!

 このすれ違いが、しかしスリルにはなっていないのだ。月形は敵役だから、最初から「最後には親子の名乗りをあげてハッピーエンド」ということがあり得ないことはわかっている。天狗は絶命した月形を見て「何も知らずに幸せな男だ」と言いますが、知らなかったのは天狗も同じ。もっと早い時期にいろいろわかっていれば、思い悩むところが増えて物語が厚くなったかもしれない。

 母親の夢を見て泣いたり、名乗り出た母親の胸に素直に飛び込んでゆけない新吉の姿が、可哀相で涙が出そうになる。息絶えようとする母親にすがって新吉が「おっかちゃん」と叫ぶ場面は思わず涙こぼれたぞ。


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