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1996/09/22 日劇東宝
人類の祖先は人魚だった。そして人魚は今も海にいる。
アイディアは面白いが物語はいまひとつ。by K. Hattori


 『河童』でデビューした石井竜也監督が、今度は「人魚」の映画を撮った。原作は岩井俊二。前作に引き続き藤竜也が出演し、これに浅野忠信と江口洋介がからむ。全編オーストラリアでロケした力作だ。『エコエコアザラク』の吉野公佳も浅野の恋人・亜久里役で出演。映画のタイトルは彼女の名前から取られているが、その割には影が薄いのは彼女の個性ゆえか、それとも脚本がよくなかったのだろうか。

 前作で「河童は宇宙人だった」という話を作った監督が今回作ったのは、「人間の祖先は人魚だった」という話。人類進化の過程で失われた輪(ミッシングリング)となっている部分には、海での生活に適応した人魚(ホモ・アクアエリウス)があり、現代の人類はその一部が陸に戻った亜種だという説は本当にある学説だが、この映画ではそれを膨らませ、人類と人魚の間に生まれた男と人魚のラブストーリーに仕立て上げた。

 地球環境の変化で雌しか産まれなくなった人魚が、種の保存のために人間の男をパートナーに選ぶ、という話は面白いし、そのために一種の幻覚を使うというアイディアもいい。普通の人間はこの幻影にだまされて相手を人間の若い女だと信じるのだが、人魚と人間の間に生まれた浅野忠信にはそれが通じない。彼は相手が人魚だと知りつつ、そのパートナーになることを選ぶ。

 ただねぇ、この映画の人魚は「いわゆる人魚」じゃなくて、イルカやアザラシと人間の中間点みたいなデザインになっているのが気になるんだな。浅野忠信が人魚と抱き合う場面では、僕の脳裏に「獣姦」という言葉がよぎったぞ。同じように「人魚と結婚する男」の話でも、『スプラッシュ』のダリル・ハンナは可愛かったじゃないですか。僕は人魚の向こう側に、いつも吉野公佳の幻を見ていたかった。

 お話には人物配置の面で未整理な部分が多く、それぞれの人物造形も練りきれていない。藤竜也演じる海洋生物学者の死んだ妻とおしゃまな娘のエピソードもおざなりだし、江口洋介演じるジャーナリストとその父親のエピソードも中途半端。自然環境保護を訴える怪しげな政治家に至っては、悪役とも脇役ともつかない得体の知れなさ。浅野忠信を事故に合わせるわがままな日本人学生は意味ありげに最初から登場するが、あっさりと途中で消えてしまう。吉野公佳に至っては、惜しげもなくヌードを披露したくせに、あの存在感のなさはなんだ。人物とエピソードをもう少し整理すれば、本体である物語のテーマがもっとふくらんできたはずなんだけどなぁ。

 僕は浅野忠信に『眠らない街/新宿鮫』の頃から注目していましたが、彼は有り余る肉体の存在感の裏側に、全く生活臭がしないという特異な役者ですね。とても結婚して一児の父には見えない。だからこそ、どこかフワフワした今回の役もすんなりと演じられるのです。他の役者が「人魚の息子」を演じて、これだけぴったりはまるかどうかは疑問でしょ。


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