花咲く港

1996/09/14 並木座
九州の小さな島に現れた二人組のペテン師が巻き起こす騒動。
ズーズー弁上原謙の名コメディアンぶり。by K. Hattori


 ときは昭和16年。九州地方のある小島に現れたふたりのペテン師。島に造船所を作りを持ち掛け、島中から集まった金を持ってトンズラを決め込もうとするが、いろんな事情でそれができないまま本当に造船所ができてしまうまでのお話。映画が作られたのは昭和18年。映画からは「国民一致協力してお国のために尽くしましょう」的な匂いがプンプンするのだが、まだまだ中身はのどかな描写が許されている。こういう映画を観ると、昭和18年時点では、まだ日本がそんなに追い詰められているわけではないことがわかる。

 日米開戦を伝えるニュースに島中が狂喜するエピソードがありますが、この映画自体が戦時中に作られたものだとは言え、これは当時の日本の偽らざる姿でしょう。当時マスコミは日本が諸外国から理不尽な圧力を受けていると報じ、戦争回避は弱腰外交だと非難。日米開戦やむなし、断固戦うべしとのキャンペーンで国民全体を煽っていた。だからこそ、この映画に登場する人たちに限らず、日本中こぞって英米との戦争が始まったことを大歓迎した。そうした空気は、昭和18年のこの時点でもまだ残っていたようです。

 この映画の中で、造船所建設の金を持ち逃げせねばならないはずのペテン師が、日米開戦のニュースに感動して涙を流し、「こんな厳粛な日に持ち逃げなどできぬ」とつぶやきます。また「戦争になって船が沈没させられたら大損だ」と造船所への出資をためらう網元が他の出資者から非難され、「あんたそれでも日本人か」と罵られる場面がありました。こうした場面の演出が、この映画の場合じつに自然なんです。分らず屋の老人に対する憤り、素朴なナショナリズムの高揚。懐紙に「御釘代」を包んで差し出す貧しい夫人のエピソードがそれを強調し、そこからペテン師も含め全員が一丸となって造船所建設に向かって行く。この場面には説得力があります。

 同じ木下恵介の戦中映画でも、翌昭和19年製作の『陸軍』には『花咲く港』が持っていたゆとりがなくなる。台詞のやりとりは空虚、芝居は平板で、まるで気の抜けたサイダーのような空しさ。たぶん木下監督自身、『陸軍』は本気で演出できなくなったんだと思う。(あの映画で感動的なのは、母親が入営する息子を追いかけて行く最後の場面だけだもんね。)でも『花咲く港』は芝居が生きているんです。監督の演出に「本気」が感じられるんです。台詞が空しく流れると感じたのは、漁船が潜水艦に沈められたのをきっかけに網元が改心する場面ぐらいかなぁ。ここは、映画全体の中で異質だ。ここだけが、単純な復讐の物語になっている。

 この映画が生臭くならないのは「お国のために船を作るぞ」ではなく、造船所建設が「恩人の遺志を継ぐもの」だからでしょう。その気持ちが胸を打つのだ。未亡人が嵐の夜に我が身も顧みずに造船所の危機を知らせに走り、「命よりも造船所が大事だ」と言う場面は感動的。人は愛する人間のためになら命だって投げ出す。


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