哀愁のメモワール

1996/02/07 シネマ有楽町
パトリシア・アークエット目当てで観に行った映画だが思わぬ収穫だった。
人間の心が生み出す愛憎の恐ろしさと怖さ。by K. Hattori


 原題は主人公の名である"ETHAN FROME"。原作者がスコセッシの映画『エイジ・オブ・イノセンス』と同じだということだが、僕は映画も未見、原作も未読。今回はたまたま時間が空いたから観た映画だ。

 主演のリーアム・ニーソンには『ダークマン』以来注目しているのだが、『シンドラーのリスト』の後パッとしない役柄が続いたので、今回もあまり期待してなどいない。むしろ僕の目当ては相手役のパトリシア・アークエットに集中していた。『インディアン・ランナー』で彼女に悩殺された僕は、その後『トゥルー・ロマンス』『ホーリー・ウェディング』『エド・ウッド』まで、彼女目当てに映画館に通ったものです。今回もその延長。

 しかしそんな僕の思惑をあっさりと吹き飛ばしたのは、主人公の妻を演じたジョアン・アレンの静かな芝居。不幸な女のネチネチとした意地悪を、じつに嫌らしく演じてみせる。最初は地味な人だと思っていましたが、地味だと思って油断しているとすっかり物語はこのゼーナという妻が支配しているのだから恐ろしい。

 「女に大切なのは誰かに必要とされること」という台詞が出てくるが、この一言が物語全体を説明してしまう。イーサンの妻ゼーナは夫が身の周りをひとりで始末できるものだから、自分の存在を否定されたように感じる。手伝いに呼んだ親戚の娘マッティが病気がちだった頃はよかったのだが、彼女が健康を取り戻すと再び自分のいる場所がなくなる。ゼーナはどんどん自虐的になる。病気もどんどん悪くなる。家の中には陰気な空気が漂う。そんな中で健気に働くマッティの存在が、イーサンにとっては心の安らぎになって行く。被害妄想で神経過敏なゼーナが、それに気がつかないはずがありません。

 イーサンとマッティが結ばれたのはある意味で必然だったんだろうけど、この必然すら、ゼーナの意志で引き起こされたものでしょう。全てはゼーナの思うつぼなんだよね。この用意周到な悪意は、しかし外部に向けられたものというより、自虐趣味のエスカレートしたものでしょうね。彼女はイーサンとマッティを傷つけることで、自分自身が傷ついている。イーサンとマッティを追いつめることで、自分自身を追いつめている。

 イーサンとマッティがそりを滑らせる場面は、画面に哀しみが満ちていた。ふたりは最後の最後まで、何度も何度もそりを斜面から滑らせる。やがて汽車の到着を告げる鐘。「最後にもう一度だけ」「今度は俺が前に乗る。マッティ、後ろから俺を抱きしめていてくれ」。悲壮な決意が胸にしみます。

 驚くのはラストのどんでん返し。傷ついたマッティを世話するゼーナは、すっかり病気が治ってぴんぴんしている。この場面が一番こわかったなぁ。


ホームページ
ホームページへ