旗本やくざ

1995/12/09 大井武蔵野館
なりひら小僧を演ずるにしては嵐寛が貫禄ありすぎなんだよ。
老獪な敵役と雰囲気がかわらないもんな。by K. Hattori



 原作は山中貞雄の「なりひら小僧」。これって映画なんですか? それとも脚本? 小説? この原作を使った他の映画ってないのでしょうか。はっきり言って、お話は結構面白いんです。旗本の総領でありながらやくざ者に身を落とし、弱きを助け強きをくじくなりひら小僧。腹黒い町道場の主が廻船問屋を恐喝し、その家の娘を我がものにしようとするのを阻止するのが今回のお話。密貿易に荷担したことを示す連判状を巡って、善玉悪玉入り乱れての攻防が続く。これは演出次第でとてつもなくスリリングな活劇に仕上がりそうなもの。

 この映画の最大の難点は、なんといっても主演の嵐寛寿郎が老けすぎている点にある。「なりひら小僧」と呼ぶにはとうがたちすぎているのだ。アラカンは歳をとっても太らなかったので、立ち回りのスピード感はさして衰えてはいない。しかし、登場したときの雰囲気は「存在感」なんて生やさしいものではなく、はっきりと年輪を重ねた「貫禄」なのだ。なりひら小僧一味の持ち味は若々しいエネルギーにあると思うし、善玉なりひらと悪玉大月の対立はそのまま若さと老獪さの対決になるべきなのに、ふたりが並ぶと当然だけどアラカンの方が貫禄がある。さらに困ったのは、映画の後半でなりひらの許嫁と弟、母親、叔父などが登場したときだ。画面の中で見る限り、アラカン演ずるなりひら小僧は自分の母親よりも歳が上だ。

 ま、このへんは目をつぶるとする。映画の中身にどこまで目をつぶれるかで、映画をどこまで楽しめるかが決まるような気が僕はしているのです。それより、大月の屋敷で屏風の後ろからなりひら小僧が登場するときのスタイルを僕は評価したい。着物の色こそ違え、あの頭巾姿はまさに鞍馬天狗その人ではないか。わっはっは! こうでなくっちゃ、アラカンがなりひら小僧をやっている意味がないっての。

 敵味方の間を行き来する連判状を巡る動きに、スピード感がないのがこの映画の物足りなさか。連判状はなりひらと大月の間を二往復ぐらいしているのに、緊張感も緊迫感も変わらないのは困ったもの。最後の大立ち回りも、殺陣にもう一工夫も二工夫も必要だと思う。武芸に素人同然の連中が、がらの悪い浪人たち相手に切り結ぶのだから、そこで互角に渡り合うには無理が出る。その無理を遠そうとするからぎこちなくなるし、キレがなくなる。このシーンをアラカンひとりで持たせようとするにしては、立ち回りの尺が長い。メリハリがなくなって白ける。

 この物語は、高島政宏のなりひら小僧で見てみたい気がする。高島ファミリー総出演で、フジカラーのCFノリで作ると面白いぞ。若々しくてエネルギッシュななりひら小僧が、ぜひとも見てみたい。


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