瞼の母

1995/11/26 大井武蔵野館
名乗りたい気持ちを押さえて立ち去る忠太郎の姿に涙。
何度見ても新たな感動を生む傑作映画。by K. Hattori



 長谷川伸の代表作を中村錦之助主演で映画化した傑作。監督は加藤泰。この映画を観るのは今年既に2度目だが、それにも関わらずとにかく泣ける。むしろ2度目だからこそ泣ける部分も多い。たぶん僕はこれからもたびたびこの映画を観るだろうが、そのたびに三たび四たび泣かされることだろう。むしろ何度も観れば観るほど、登場人物たちの気持ちが手に取るようにわかって感動の度合いが深くなるような気がする。物語の筋を追わなくなった分だけ、キャラクターの感情のうねりに没頭できるのだ。

 大店の女将になった母親に会うことが、母親の迷惑になるということは忠太郎にもわかっている。彼にとっては、母親が盲目の三味線ひきや老いた夜鷹であった方がどれほど気楽だったことだろう。彼は店の勝手口の前で、中にはいるのを躊躇する。躊躇するが結局は中に足を踏み入れたのは、彼がどうしても自分の母親に会いたかったからに他ならない。忠太郎は堅気の衆に対して語気を荒くしてすごんだり不調法な振る舞いをするような男ではないが、この時は店の者と一悶着起こす。店の者にしてみればその前に一通りのいきさつがあって用心深くなってのことなのだが、不幸なことにこれが忠太郎の第一印象を悪くしてしまう。

 質の悪いゆすりたかりを撃退しようとてぐすねひいて待ちかまえる女主人。目の前に連れてこられた若い渡世人が我が子だと名乗ったところで、どうしてすぐさま信用することができようか。目の前には当家に嫁してからもうけた一人娘の婚礼も控えている。彼女はひたすら狼狽する。

 この後のふたりの感情のすれ違いは観客を涙させずにはいないのだが、それは観客が二人の気持ちのどちらに対しても同じように共感しているからだろう。どちらが悪いというわけではない。母親が忠太郎を受け入れられなかったのは彼女の弱さかもしれないが、それは同時に彼女の娘に対する愛情でもある。彼女がふたつの愛情に引き裂かれて苦しむ様子に、観ているこちらまで息苦しくなった。

 前回はこの後忠太郎が泣きながら店を飛び出して行く場面で泣いたが、今回はそこよりむしろ、忠太郎を追って出た母親が暗闇に向かって息子の名を叫び、物陰に隠れる忠太郎が押し殺したように「おっかさん」とつぶやく場面に大泣きした。忠太郎は一目散に母親のもとに駆け出して行きたいのだが、それをぐっとこらえる。こらえなければならない理由を観客は知っているし、忠太郎もわきまえている。彼は母親が彼に追いつく前に数人のやくざを斬っている。彼はそういう稼業に生きる身体なのだ。そういう生き方が身体に染み着いているのだ。どうして母親のもとに出られよう。互いに心が通じた一瞬を心に刻み、忠太郎は遠く旅立って行くしかないのだ。


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