1995/11/04 丸の内東映
一色紗英の伸びやかさが光るけど、これが宮沢りえならとも思う。
一色に比べると大人たちは影が薄いぞ。by K. Hattori



 主人公の名は田乃内烈。Windows用のシェアウェアソフト「The姓名判断」によれば、この名は社会運・天格・地格・外格・総合運において吉、家庭運が普通で人格が凶とある。社会運は「指導者となるための技術、資格強をすると成功早い」ことを表し、天格は「女系家族、男性は絶えることあり、養子を迎えて家名存続」することを示し、地格は「独立心強い、ピンチに強い、男性は嫁の親に可愛がられる。女性は長男との結婚。一族一家の責任者となる」ことを運命づけられている。この判断が正しいことは、この映画を観た人全てが納得することだろう。姓名判断を迷信だとあなどるなかれ。

 全然期待していない映画だっただけに、思いのほかきちんと作っていることには驚いた。現代日本映画としては水準以上をクリアしているデキだと思う。東映の文芸映画はセットがきちんとしていて、安心して観ていられる。中途半端にロケーションして偽装に苦労するより、かけるべきお金はきちんとかけてセットを組んだ方が芝居も映える。東映のセットには、まだ映画黄金期の名残がある。

 列を演じた一色紗英はこれが映画デビュー作とのことだが、予想以上の好演を見せて驚かされた。嫉妬心に身を焦がし、叔母に向かって自分の恋心を訴えるシーンなどは画面から迫ってくるものがある。列の行動は後半の物語を進める原動力になるが、一色は初主演とは思えない大胆な芝居でこの大任を成し遂げた。映画を観終わった後でさわやかな印象が残るのは、ひとえに一色紗英の存在によるものだ。

 そんな彼女をとりまく大人の役者たちだが、父親役の松方弘樹は芝居が一本調子。前半の雄々しい父親像はこれでもいいかもしれないが、息子の事故死、娘の失明、自らの病などを経て弱気になった後半の父親像への落差が見えてこない。これでは列が自立して行く姿が弱くなる。父親が道を退いてこそ列の生き方が輝いてこようというものだ。しかしこれをもって、役者としての松方の資質を云々するような問題ではない。芝居が平板なのはこの映画全体に言えること。これは演出の問題でもあるのだ。

 責任を免れないのは叔母役の浅野ゆう子だろう。この人の芝居はこれだけで役者としての資質を云々されても仕方のないレベルのものだ。表面的に台詞を読み上げているだけで、腹に抱えた情念のようなものがにじみ出てくることがない。スカスカに乾ききった味わいもそっけもない素人芝居の連続が、この映画を白々しくする。当初烈役に打診されていた宮沢りえは、浅野とはりあって役を降りるなんて何とももったいないことをした。名前の席次はどうあれ、ひとたび画面に出れば宮沢が映画をさらうことは明白だった。今の映画でも、しばしば一色が浅野の芝居を食っている。それがちょっと恨めしい。


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