光る眼

1995/11/04 東劇
古典的侵略SFをジョン・カーペンター監督がリメイク。好きだねぇ。
主演のクリストファー・リーブはこの後事故で半身不随に。by K. Hattori



 僕はカーペンターの映画を、いつも最初から半ば馬鹿にしながら観ている。馬鹿にしながら観ているのだが、途中から馬鹿に出来なくなるぐらい怖い場面に震え上がったりすることもあるからカーペンターの映画はあなどれない。結局馬鹿に出来るのは半分だけで、残りの半分はかなり真面目に観させられてしまう。前作『マウス・オブ・マッドネス』もそうだった。今回の映画も同じ。設定がわかってしまえば話は最後まで読めてしまうのだが、ポイントポイントでの演出のアヤのようなものに才能の片鱗をのぞかせるカーペンターの映画が、僕は嫌いになれない。むしろ積極的に好きだと言ってもいい。

 ある日突然ひとつの村が原因不明の昏睡状態に陥って、その日に女性が相次いで妊娠。産まれた子供は人間によく似た別の者だった、というアイディアは面白い。それより面白いのは、じゃあ一体全体子供たちはどこから来たのか、彼らの目的はなんなのか、彼らが常にペアで行動するのはなぜなのか、といった多くの謎を残したまま物語が単純な対決方向に向かって行くところだ。

 だいたい子供たちの頭がいいんだったらもう少し目立たないように、周囲の大人たちと協調して行く方法を考えればいいんだよ。そうすればあんな結末にはならず、もっと穏やかな、そしてもっと怖い結末になるはずなんだ。あからさまに周囲に危害を加えるから、その反作用として自分たちが迫害される。自分たちが迫害されていることだけを取り上げて、自分たちの行動を正当化しようとするのは無理がある。同情できない。この映画の子供たちが持っているメンタリティは、結局オウムの連中と変わらない。自分たちは正しい、自分たちは正義だ、自分たちは優れている、自分たちより劣った者とは共に行動できない。子供たちは出家して町外れの倉庫で集団生活を始める。まるで、なんとかサティアンである。

 この映画の主人公がとった解決方法に比べると、今の日本警察はなんと悠長な方法を採っていることか。この映画に描かれているのが、アメリカ的な問題解決の手段なのだろう。オウム事件を間近に見ている日本人にはこの展開が性急すぎるように思えるかもしれないが、逆にこの映画に描かれているような方法こそが、リアルな現実なのかもしれない。話し合いで解決しない問題は、いくらだってあるのだ。オウム問題に頭を悩ませている上九一色村あたりでこの映画を上映すれば、主人公の行動は大いなる共感を持って受け入れられるだろう。

 マーク・ハミルの扱いがあんまりで『スター・ウォーズ』のファンは愕然とするだろうが、僕は彼がもっとひどく扱われている『ガイバー』という映画を知っている。クリストファー・リーブは、ひょっとしたらこれが最後の映画出演になるのかもね。


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