ひめゆりの塔

1995/06/25 池袋ジョイシネマ2
安っぽい少女タレントの顔見世映画になってしまった。
戦後50年を記念した映像イベント。by K. Hattori



 東宝の戦後50周年記念映画。沖縄戦に参加したひめゆり部隊と呼ばれる女子学徒たちの姿を描いた映画で、同じ素材は今井正監督が過去に2度映画化しているが、僕はどの映画も未見。今回の映画を監督した神山征二郎は、学徒動員の特攻隊員を描いた『月光の夏』を撮ったこともあるひと。今回、同じ時代の別の場所で、同じ戦争の中を生きた少女たちを描くとあって、僕は過分な期待をしてしまったようだ。なにしろ僕は『月光の夏』でベロベロに泣いてしまったクチで、それと同じレベルの感動を期待してしまったのが、どうやら間違いだったらしい。考えてみれば、神山監督は『遠き落日』の監督だものなぁ。そのレベルで考えていれば間違いがなかった。『月光の夏』は、ちょっと特殊な映画です。

 僕はこの映画からものすごく中途半端な印象を受けた。結局、何が言いたいのかわからないのだ。基本的には事実の再現という大前提があるわけだけれど、多数いた少女や教師のエピソードからなにを取捨選択するかで、描きたいテーマというのはおのずと決まってくると思う。また、演出も同じこと。どのエピソードに焦点を当てるかが、かなり曖昧になっているのではないだろうか。この映画はひめゆり部隊の全体像を解説するものとしては情緒的すぎるし、少女たちのエピソードの感情移入するには物語に厚みがない。結局、どっちつかずの映画だと思う。

 例えばこの映画に対し、「戦争の被害者としての側面しか描かれていない、云々」という批判があるであることは充分に予想できる。でも、僕は必ずしもそうした意見に与するものではない。日本は戦争中によそでひどいことをずいぶんしたが、戦争でひどい目にあったこともまた事実。その事実は事実として描くべきだろう。被害者意識大いに結構。一方で加害者なのだから被害者意識は悪である、というような論調がまかり通るようでは、世界中に戦争被害者などいなくなってしまうもんね。

 ただ、こと沖縄戦になると、問題は複雑になってしまう。沖縄戦の犠牲者は必ずしも戦闘の犠牲者だけではないわけで、集団自決があったり、友軍であるはずの日本軍にひどい目にあわされたりしているわけです。この映画でも、沖縄方言の問題や、軍隊に壕から追い出される民間人のエピソードなどが描かれてはいるが、このあたりをもう少し掘り下げるだけで、この映画はまた別の物になったと思う。

 事実関係がどうなのかは知らないが、例えば登場人物たちに徹底して沖縄方言を使わせるだけで、日本と沖縄の屈折した関係のようなものが表現できたかもしれない。アメリカとの戦争の中で日本側にも見捨てられた沖縄と、その中でただひたすら死に向かって行くひめゆり部隊の悲劇が、言葉を通して浮かび上がってくる可能性だってあったと思うぞ。


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