緋牡丹博徒
お命戴きます

1995/06/25 文芸坐2
古い映写用フィルムは色褪せて加藤泰の映像美が伝わらない。
お話も平板で水準を超えるできではない。by K. Hattori



 同時に観た『緋牡丹博徒・花札勝負』に比べると、やはり質はだいぶ落ちる映画だ。プリントも古く、所々でぶつぶつとフィルムがとぎれるのが気になった。それにしてもこうして比較すると、逆にますますニュープリントの素晴らしさがわかるというものです。古いプリントは画面のコントラストが全体に低くなり、加藤泰の映画特有の極端な遠近感や陰影を生かした描写がすべて死んでしまっている。ここからわかるのは物語のみ。フィルムというメディアの脆弱性が、これでわかろうというものだ。

 さて、そこでこの映画だが、鉱山の利権を巡るやくざと軍人の暗躍。鉱山の廃液と煤煙で田畑を失った農民のために鉱山と談判する、鶴田浩二演ずる地元やくざの親分とのいざこざ。そこに、主人公お竜が巻き込まれる展開となっている。要するに、公害問題を扱った映画なのですね。鉱山事業の公共性を隠れ蓑に、ひたすら私利私欲に走る鉱山の社長と、鉱山の利権に群がる軍人とやくざ。彼らにとって、苦しむ百姓たちはとるに足らない存在である。しかし、百姓出身の鶴田浩二は度重なる利権側への誘いをかたくなに拒み、一貫して百姓の側に立ち続ける。彼は結果として孤立し、やがて利権をむさぼる側のやくざ連中と敵対。闇討ちにあって命を落とす。

 結局、最後は鶴田の葬儀の場でお竜が仇を討つわけだが、どうもこの映画は全体に一本調子で、あまりよいデキではない。鉱山の現状を陸軍大臣に直談判して訴えるお竜が、兄貴分である若山富三郎の仲介でそれに成功するあたりも、ちょっと短絡的な解決方法すぎる気がする。この直談判が前後していれば鶴田は命を落とさずに済んだわけだから、ここではやむにやまれず談判が後回しになってしまったという説明がほしいところではないか。これでは、お竜が手をこまぬいているうちに、むざむざと鶴田が殺されてしまったようにも受け取られかねない。

 ところで、僕はこの映画を観ていて、なぜかシュワルツェネッガー主演の映画『トゥルーライズ』を思い出していた。それが正義のためであれ、女性に凄惨な人殺しはさせないというのがアメリカ製娯楽映画の不文律で、『トゥルーライズ』ではジェイミー・リー・カーチスのマシンガンが階段を転げ落ちるところなどに、そうした思想が端的に現れていた。でも、少なくともこの『緋牡丹博徒』シリーズはそうした甘っちょろい不文律とは無縁。藤純子は相手が悪い奴なら、迷うことなくばたばたと斬り倒して行くのですね。このあたりの潔さは、観ていて気持ちがいい。

 ところで、この映画のオープニングからちょっとぎくしゃくした印象を受けたんだけど、それはひょっとしたら、藤純子の歌うテーマ曲が聴けなかったからだったりしてね。クセになりそうな歌声です。


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