ウィンズ・オブ・ゴッド

1995/06/04 丸の内松竹
平成の若手漫才コンビが終戦間近の特攻隊基地にタイムスリップ。
舞台劇の映画化だが成功したとは思えない。by K. Hattori



 広島長崎に原爆が落ちた日と終戦記念日ぐらい憶えておけよ、というのが率直な感想。そうすりゃ、最後の最後に主人公の弟分が死ぬこともなかったんじゃないのかね。そのへん、ちょっと納得がいかないんだよな。何もよりによって、玉音放送の数時間前に出撃して死んじまうこともあるまいに。

 ま、それはそれとして。結局舞台劇をそのまま映画にしてもダメなんじゃないのかなぁ、というのがもうひとつの率直な感想。平成の漫才師が終戦直前の日本にタイムスリップして、周囲の特攻隊員たちと一喜一憂しあう物語だけど、エピソードが数珠繋ぎで全体でひとつのドラマになって行かない。これは凝縮された舞台空間ではそれなりに観られる構成だと思うけれど、映画ではちょっと散漫な印象になってしまう。ちなみに、僕はこの舞台を観ていませんが、その程度のことは想像がつくんですよ。映画化するに当たっては、もうひとつ別のエピソードなり仕掛けが必要だと思うけどな。

 話としては、主人公の弟分がいかにして特攻に出撃する気になってしまうかがひとつの物語になっていて、主人公自身はその物語の外側にいるだけなんだ。主人公は次々出撃して行く若い特攻隊員たちを見守り見送るのみで、自分で何の行動も起こさない。傍観者なんだよね。この主人公は観客の分身、あるいは身代わりとして、50年前の特攻隊基地を見聞し、観客にその様子を伝える機能を持っている。でも、映画ではその機能が生かされていなかった。中途半端に主人公が自立的で、少なくとも僕には感情移入できませんでした。

 細かいところを指摘しだすとキリがないんだけど、すごく気になったところだけを何点か。まず、主人公たちのいる特攻隊の出撃基地がどこにあるのかが不明。沖縄方面に出撃する基地なのに、富士山が見えるのはまずいんじゃないだろうか。基地は本来九州とか、あっちのほうでしょうね。あと、主人公が零戦を飛ばすと、突然塗装のパターンが変わってしまうのも、どうしても目をつぶって許す気にはなれなかった。何の偽装もせずに、飛行場に飛行機がずらずら並んでいるというのもヘンだし、夜の滑走路にドラム缶で灯をともす必要もないだろう。燃料や飛行機の絶対的な不足という問題も、まったく問題にされていない。出撃した特攻機が、ことごとく敵艦に命中してしまうのも、なんだかなぁ……。

 僕は別に特攻隊に詳しいわけではないけれど、例えば何年か前に公開された神山征二郎監督の『月光の夏』に登場した特攻隊に比べると、『ウィンズ・オブ・ゴッド』の特攻隊はまるっきり深刻ぶっているだけの戦争ごっこなんだよね。舞台の上でなら許す気になる小さな嘘も、映画で〈絵〉として見せられると許せない場合もあるのですよ。


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