東京兄妹

1995/02/06 シャンテ・シネ1
恋人が死んで妹がひっそりと戻ってくるところがいい。
緒形直人の魅力が十二分に発揮された傑作。by K. Hattori


 磨き上げられた宝石のような映画。評判の高かった『病院で死ぬということ』(な〜んて偉そうに書いているけど、僕は未見)で完成させたカメラと被写体との醒めた距離感が、逆に、登場人物達の感情を鋭利な刃物で切り取ってみせる。もっとも、こうした手法は、市川監督の映画デビュー作『BUSU』からすでに見られたもの。『BUSU』のクールなタッチに打ちのめされ、その後『ノーライフ・キング』『TUGUMI』で次々と失望を味わった僕としては、久々に感じた市川準タッチの映画にメロメロ。しばらく口もきけないぐらい感動させられた。

 タイトルからして小津風。淡々とした動きの少ない画面と、ぼそぼそしゃべる登場人物たちも、観客の脳裏に「小津安二郎!!」というビッグネームを連想させるに充分。市川監督本人も、当然この名前を意識していたはずだ。だが、完成した映画は小津にちょっと似ていて、だいぶ違う。

 市川監督は、意図的に〈小津風〉のスタイルを拒絶しているのではないか。例えばオープニングのカット。セット自体はいかにも小津風だし、安定した構図もそうなんだけど、決定的に違うのはそのアングル。小津スタイルの代名詞のようにいわれているローアングルではなくて、見下ろす角度での画面構成になっている。これは絶対に意図的なものだ。

 こうした露骨な小津に対する拒否反応は、反対に市川の小津に対する敬意と親和性を暴露するものでもある。市川準って、放っておくとどんどん小津的なものになってしまうんでしょうね。それに本人も気がついているからこそ、それをあえて拒絶したくなるんじゃないかな。敬して遠ざけるというアレ。

 小津映画とこの『東京兄妹』の一番の違いは、人物とカメラとの距離感にある。小津のスタイルというのは、結局彼なりの被写体への接近方法で、押さえたタッチながらも、ぐいぐいと登場人物たちの心理を掘り下げて行くような濃密さがあったと思う。対して市川は徹底して人物たちに近寄ろうとしない。カメラは一定の離れた距離を保ち続け、冷ややかな傍観者のように人物たちを監視し続ける。それでいて、画面にとらえられた人物の動きがその人物の感情として観客にビビットに伝わるのだから、映画というものは不思議だ。酔って寝ていた兄の友人が目を覚ます場面があるが、一言も台詞のないこのシーンだけで、彼が恋に落ちたことが観客にはわかる。ここに限らず、登場人物の描写からは台詞が徹底的に省かれていて、それが映画全編に静かだが張りつめた緊張感を生み出している。

 最終カットの仕掛けはちょっと違和感を残すが、あの芝居ひとつでこの兄妹の間にある愛憎を表現し、映画全体から受ける印象を全く別のものにしてしまうあたり……。これはこれで上手いのかもしれない。


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