つきせぬ想い

1995/01/24 PARCO SPACE PART3
隣家の少女の元気な笑顔が失恋した男をなぐさめる。最後は涙涙。
香港映画の新星アニタ・ユンの魅力には降参だ。by K. Hattori


 印象に残るのは、映画の前半ばかり。なんでもない日常風景のひとつひとつが、こんなに鮮烈な印象を残す映画は久しぶりに観た。辻音楽家、安アパート、夜店の熱帯魚、饅頭飴、山の上から見える香港の風景、飛び立つ飛行機、水上屋台での食事、小さな小屋の京劇、野次馬飛び入りのデート、露天で見つけた指輪。どれをとっても、忘れられない。

 ところが映画を観ている最中は、この前半をわりとするする見逃してしまう。特に物語に起伏があるわけでなし……、いや、あるのだが、演出はそれをドラマチックに構成せず、あえて平板に、平凡に、何事もないように物語をつむいで行くのだ。

 ドラマチックなことなんて何も起こらない、ごく普通の日常。男と女が別れ、少女は男を見つけ、少女と男は恋をする。でもそれは、傷つき優しさに飢えた男が、成りゆきで少女のもとに立ち止まっただけなのかもしれない。少女はそう感じる。そして、たぶんそれは間違いない。

 男は少女に出会って、自分になかった何かをそこに見つける。自分の心の中にあった頑ななものが、少しずつ溶けて行くのを感じる。男は少女と一緒にいると、あたたかく、優しい気持になれる自分を発見する。少女は男に笑い方を教える。男は初めてわらう。そして、笑っている自分に少し驚く。

 前半を引っ張る少女のパワーに、物語はぐんぐん加速をつけて上昇して行く。この前半部分の勢いが、少女の病の再発、短い闘病、死という結末で突然とぎれたとき、観客の記憶は突如として猛烈な速度でバックスクロールしはじめるのだ。

 最後の晩、病床の少女はつきそう男に饅頭飴をねだる。時間はもうかなり遅い。やっぱりいいのと言う少女に、なに大丈夫さと男は出かける。だが近所の屋台はもう閉まっている。男はかつて少女と初めてでかけた、公園の屋台で饅頭飴を買う。ふたつ買う。白いのと茶色いを、ひとつずつ買う。

 長い廊下の向こうに、何人かの看護婦が立っているのが見えた時、男は走らなかった。ただゆっくりと、少しうつむきながら泣いているたちの間をすり抜けると、男の目にはベッドの上の少女が見えた。

 この時、少女の姿は画面に映らない。これで映画は終わりだ。だが観客の中では、この瞬間に不思議な化学反応が起こり始める。ひたすら平板で何事もないと思われた映画の前半が、とてもいとおしくなってくるのだ。安っぽい露天の指輪が宝物になったように、小さな日常の出来事や事件のひとつひとつが宝石のように輝き、どれもが大切なものになって行く。こうして、映画が終わった後で思い出すのは、ただひたすら前半の明るい風景だけになるのだ。

 少女を演じたアニタ・ユンの存在感が、この前半を支えている。彼女なしに、この映画はありえない。


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