エム・バタフライ

1994/06/14 シネマスクエアとうきゅう
ジョン・ローン演ずる京劇役者を女性だと信じるジェレミー・アイアンズ。
デビッド・クロネンバーグが有名な戯曲を映画化。by K. Hattori


 「京劇ではなぜ男が女を演じるかわかる? それはね、女がどう振る舞えばいいかを知っているのは男だけだからなのよ」

 東洋の中に自らが理想とする幻影を見いだした男、東洋の女の中に自らが理想とする究極の女性性を見いだした男の話。しかしそれはは主人公の心の中にしか存在しないフィクショナルな理想像。美しく幻想的な虚構性は、残酷な現実の前にもろく砕け散る。

 この映画で描かれる恋はたちの悪いお芝居。お芝居は虚構を現実とまがりなりにも信じることで成立する観客と演者の共犯関係だが、それは第三者が虚構を虚構と指摘することで壊れてしまうものなのだ。『エム・バタフライ』の主人公は、自分の愛情が虚構であることをどこかで知りつつも、その虚構の中にある一片の真実にすがって魅惑的な共犯関係の虜になる。恋人に「バタフライ」と呼びかけ、恋人が説く「中国式の愛情表現」を守ろうとする。それは無意識に、この虚構に耽溺しようとする心の表れなのかもしれない。

 この映画で描かれているのは極端な例かもしれないが、男が女に対して持つフィクショナルな幻想を描いたという点では普遍的なテーマを描いていると思う。この主人公を女性は笑うかもしれない。でも、世の男性はこの主人公を馬鹿な奴だと笑えるだろうか。

 デイヴィッド・クロネンバーグは前作『裸のランチ』とは打って変わり、あくまでも正攻法のドラマでこの一風変わった愛情劇を描き出す。主演のジェレミー・アイアンズは同監督の『戦慄の絆』でも一人二役で主演し、双子の兄弟の歪んだ愛憎を演じていた。僕は『戦慄の絆』をクロネンバーグの最高傑作と信じていたのだが、今回『エム・バタフライ』を観て、傑作の名は常に新しい作品が引き継いでゆくものだということを思い知らされた気がする。この作品は間違いなくクロネンバーグの最高傑作だろう。『戦慄の絆』で描かれていたのと同種のテーマが、より純粋にわかりやすく描かれていたと思う。主演が同じアイアンズであることは意味のあることなのだ。

 と、『スキャナーズ』以降のクロネンバーグ・ファンである僕は考えるが、初期のカルト的な魅力をたたえた作品群をビデオなどで見知っているマニアにはまた別の見方があるのだろうと思う。(残念ながら僕はそれらの作品を未見なのだ。)それにしても、クロネンバーグは摩訶不思議正体不明理解拒絶自己満足映画を作った直後に、バランスのとれた佳作を作る傾向がある人だ。『ヴィデオドローム』の直後に作られた『デッド・ゾーン』は間違いなく傑作だし、今回の映画の前に作られた『裸のランチ』もゲテ物映画以外の何物でもない。『戦慄の絆』の前はなんだ? 『ザ・フライ』か。あれもグロテスクな恋愛映画だった。

 クロネンバーグという監督は好き嫌いの別れる作家です。僕は好きですが、嫌いだという人が大勢いることも知っている。好きな理由も嫌いな理由もたぶん同じで、これは生理的なもの。好きな人はあの風合いや肌触りがたまらなく好きだが、嫌いな人はまるで汚物を見るかのように毛嫌するのです。デートで観るなら事前に相手の好みをリサーチした方がいいでしょう。


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