チャーリー

1993/04/26
天才チャップリンの人生を絵解きしただけの安っぽい伝記映画。
才能なき者に天才のなんたるかは描けない。by K. Hattori



 期待が大きかっただけに失望も大きかった。ロバート・ダウニー・Jr.のそっくりぶりを除けば、なにも見るべき点はないだろう。伝記映画としては先に公開された『マルコムX』の足下にも及ばない。時折挿入されるチャップリン映画の抜粋には客席から笑い声が起こるが、これは逆にアッテンボローの撮った本編のつまらなさを強調するだけだ。

 映画はチャップリン5歳の時の初舞台からアメリカを追放されるまでを、チャップリン自身が自伝の編集者に語るというスタイルで描かれる。ところがチャップリンの名誉回復とも言えるアカデミー特別賞の受賞は自伝出版の後のことなので、この「本人の語りかけ」スタイルを最後まで徹底することができない。そもそも、老人が自分の生涯を作家に語るというマンネリ化したパターン以外に、伝記を映像化する手段がなかったのか疑問だ。このパターンは『ジェーン・ピットマンの生涯』(これはTVだったかな?)や『フォー・ザ・ボーイズ』などで、いわば使い古された手法ですからね。また、生涯を語り終えた主人公のそれからを描くラストシーンも、『ジェーン・ピットマンの生涯』や『フォー・ザ・ボーイズ』の方がスマートで感動的だった。

 アカデミー特別賞を受けるシーンでは、当然会場中が立ち上がって「スマイル」を歌うという感動的なラストシーンで締めくくると思いきや、なんと過去のチャップリンの作品のハイライトシーンを画面に映して終わってしまう。まるで『ニュー・シネマ・パラダイス』だ。僕はこのシーンで涙が出そうになったが、しかしこれは『チャーリー』という映画に感動したからではない。観客はチャップリン本人が演じる『サーカス』や『街の灯』の映像に笑い、チャップリン本人が演じる『キッド』の映像に涙するのだ。映画本編の力不足を過去の芸術作品の力で帳尻会わせするようなこの態度には腹が立つ。観客の涙でお茶を濁すとは、何という欺瞞だろうか。

 そもそも内容を盛り込み過ぎなのだ。チャップリンの自伝を読めばわかるが、彼の生涯はそのどこを取り出してもそれだけで1本の映画ができるぐらい面白い。また彼は極貧の少年時代から億万長者へと登りつめた立身出世物語の人物であり、映画の創成期に世界中に映画を配給した偉大な芸術家であり、数々の女性遍歴を持つプレイボーイであり、もちろん映画の大スターであり、平和主義を煙たがられてアメリカを追われた人物である。こうした多様なチャップリンの中からどのチャップリンにスポットライトを当てるかで、映画の色合いが変わってくるはずだ。そして常識的に考えれば、2時間という映画の中ではこうした多様なチャップリンの中のひとつかふたつにしか強く光を当てられないだろう。しかし『チャーリー』は欲張った。全ての要素を入れてしまった。そして、結果は失敗した。

 『チャーリー』はエピソードの寄せ集めにしか見えない。ひとつひとつのエピソードは数分しか続かず、まとまって大きなドラマになるということがない。単なる絵解きか紙芝居になってしまっている。エピソードのひとつひとつを膨らませて、もっと見せてほしかった。当然全体のエピソード数は減るだろうが、そんなことは構わない。だいたいチャップリンの4人の妻のエピソードがあんなに必要なのだろうか? エドナ・パーヴィアンスなんて登場させる必要あったのかな? もっと描かなければならないエピソードはあったはずだと思う。マック・セネットやメイベル・ノーマンドの話は食い足りなかったし、生涯の伴侶となるウーナも影が薄い。

 この映画は結局何が言いたかったのか。『チャーリー』という映画を通して、アッテンボローは何を観客に伝えたかったのか。僕が『チャーリー』という映画から感じた印象は「知ってるつもり」的な俗受けする大衆の倫理感だ。曰く「喜劇の裏側には巨大な悲劇がある」「偉大な芸術家の生涯は必ずしも幸福ではない」「天才と狂気とは紙一重である」云々。僕が『チャップリン自伝』から読み取ったユーモアやペーソスは映画の中から姿を消し、ひたすらチャップリンの苦悩や不幸ばかりが取り上げられる。なんて陰気な映画なのだろうか。



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