ロバート・キャパという写真家の名前は、最初から伝説的なものだった。本名はアンドレ・フリードマン。当時二十歳を少し過ぎたばかりのフリードマンは、自分がいくら写真を撮っても売れないことに業を煮やし、3歳年上の恋人ゲルダ・タローと共に「ロバート・キャパ」という高名なアメリア人写真家の存在をでっち上げる。フリードマンとタローがキャパ名義の写真を撮っては通信社に持ち込んで売りまくり、やがてキャパの名前は報道写真の世界のビッグネームとなって行ったのだ。1936年にスペイン内戦が勃発すると、フリードマンとタローは友人のデヴィッド・シーモア(シム)らと共に内戦の取材を始める。フランコ将軍率いるファシズム陣営と、それに反対する共和国軍の戦いは世界中の注目を集め、多くの義勇兵がこの戦争に参加した。この戦争はキャパを世界的に有名にし、タローの命を奪うことになった。内戦は1937年に終了。共和国軍を支持した人々は、大量の難民となって国外に脱出する。この時、キャパが撮影した大量のネガフィルムが行方不明になった。
映画『メキシカン・スーツケース』は、スペイン内戦を取材したキャパ(フリードマン)、タロー、シムの残した大量のネガが、2007年になってなぜかメキシコシティで発見されたことを取材したドキュメンタリー映画だ。だがこれは、映画の中心テーマではない。大きなモチーフではあるけれど、テーマはネガ発見を巡るミステリーではないのだ。この映画が描いているのは、スペイン内乱が残した大きな心の傷だ。この内乱では多くの国民が殺された。内戦後もフランコの独裁体制は続き、民主制への移行後も、この過去について語ることがスペインでは長くタブーとされてきた。スペイン内戦やフランコ独裁時代の犠牲者に対し、名誉回復が行われたのは2007年になってのこと。くしくもこれは、メキシコでキャパたちの撮影ネガが発見されたのと同じ年だ。封印されてきたスペイン内戦の記憶が、歴史の中からよみがえってくる。その象徴が、キャパたちの残した「メキシカン・スーツケース」なのだ。
スペイン内戦でフランコ率いる反乱軍が勝利した後、共和国を支持した多くの人々が弾圧や粛清をおそれてスペインを脱出した。ピレネー山脈を越えてフランスに逃れた人々は、しかしそこではまったく歓迎されなかった。フランスは隣国スペインとの関係を考慮して、難民受け入れを拒絶したのだ。行くあてのないスペインの難民たちに救いの手を差し伸べたのが、内戦中に人民戦線を支援していたメキシコだった。この時、メキシコに亡命するスペイン人たちと一緒にキャパたちのネガは海を渡ったのだ。
キャパについては有名な「崩れ落ちる兵士」の写真撮影を巡って、沢木耕太郎が新たな説を提唱している。その説の妥当性はさておき、スペイン内戦がキャパのその後の人生を決定づけたのは事実だろう。
(原題:The Mexican Suitcase)
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