ブルーバレンタイン

2011/03/10 松竹試写室
あるカップルの出会いと別れを描くラブストーリー。
脚本の構成については賛否ありそう。by K. Hattori

Bluevalentine  優れた映画は脚本も優れている。優れた映画には、必ず脚本の上でも工夫が凝らされている。凡庸な脚本からは、凡庸な映画しか生まれない。だが難しいのは、脚本で工夫を凝らせば、それで優れた映画になるわけでもないことだ。本作『ブルーバレンタイン』の脚本には工夫がある。しかしその工夫が、完成した映画にどれだけの貢献をしているかというと、それがよくわからない。この物語はこの工夫なしで素直に物語った方が、ひょっとするとより感動的な物語になり得たような気もする。監督のデレク・シアンフランスは脚本の第1稿を書いてから11年も、手もとにある脚本をあれこれいじくり回していたらしい。「構想○○年でついに映画化」という作品は、「○○」に入る数字が大きくなればなるほど詰まらなくなるというのが定説だ。この映画もその例に漏れない。これは詰まらなくはないし、駄作ではない。よく考えられていると思う。でも考えすぎなのだ。もっと素直に、シンプルに、ストレートに物語を語った方が、この映画はもっと面白くなったと思う。

 この映画の脚本のアイデアは、ひと組のカップルの出会いと別れを、A(出会い)とB(別れ)という2つの物語として、別々に描こうとしたところにある。カップルには幸せな日々があり、それが徐々に停滞し、心が離ればなれになり、ついには破局して別れてしまう。しかしここでは、途中の経過をくだくだと描かない。映画はふたりの馴れ初めを描き、途中の数年間を省略して、別れを描く。映画の中での時間配分は、どちらもほぼ半々ぐらいだろうか。これは悪くないアイデアだと思う。問題はこれを、どう描くかだ。映画の前半で出会いを描き、後半で別れを描いてもいい。逆に映画の前半で別れを描き、そのカップルの出会いを後半で描いてもいい。しかし映画はもっと凝った方法を取る。AとB、ふたつの物語を同時進行させるのだ。B1・A1・B2・A2・B3・A3……といった具合に、ふたつの物語は交互に少しずつ進行してゆく。映画の最後は幸せのピークと、絶望的な破局が隣接するのだが、そのコントラストが劇的な効果を生み出すかというと、残念ながらそれほどの効果が出ていない。

 高い山に上るには、上り続けなければならない。下りるのは頂上に着いた後でいい。映画における観客の感情もそれと同じだ。細かな起伏はあっても、大きな上昇と大きな下降が組み合わさって感動が生まれる。だがこの映画は上昇と下降を交互に繰り返すことで、観客の気持ちをひとつの場所に押しとどめてしまう。

 主演ふたりの演技は素晴らしい。髪の毛を剃って(抜いて)ぶざまに年を取ってみせたライアン・ゴズリングも、スッピンで生活やつれしたヒロインを演じるミシェル・ウィリアムズもいい意味で熱演している。ウィリアムズが上手いのは前から知っていたが、ゴズリングはこの映画で俳優として大きく株を上げたのではないだろうか。

(原題:Blue Valentine)

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4月23日公開予定 新宿バルト9、TOHOシネマズシャンテ
配給:クロックワークス 宣伝:樂舎
2010年|1時間52分|アメリカ|カラー|アメリカンビスタ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.b-valentine.com/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:ブルーバレンタイン
関連DVD:デレク・シアンフランセ監督
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