世界のどこにでもある、場所

2011/02/03 シネマート六本木
大森一樹が現代日本を舞台に描く『まぼろしの市街戦』。
劇団SETの俳優総出演の野外演劇。by K. Hattori

Sekainodokonidemo  映画の冒頭に「フィリップ・ド・ブロカに捧げる」という字幕が入る。本作はド・ブロカ監督のカルト映画『まぼろしの市街戦』を下敷きにしたコメディで、精神病院から抜け出した患者たちの中に、外部からやって来た男がひとりだけ紛れ込むという設定を『まぼろしの市街戦』からそのまま借りている。登場人物の多い映画だが、出演者は劇団スーパー・エキセントリック・シアターがほぼ丸抱えで対応。事前にオーディションも兼ねたワークショップで入念なリハーサルをこなし、撮影場所も群馬県桐生市の桐生が岡公園に限定することで、わずか10日間で映画を撮り切ってしまった。

 映画の作り方としてはとても興味深い作品だが、映画のでき自体に僕はだいぶ不満がある。僕にはこの脚本も、俳優たちの演技も、監督の演出も、まるで映画らしいものだとは思えないのだ。これは映画よりも、小劇場での芝居に近い。それは登場する俳優たちが否応なしに持つ体臭、演技の臭みでもあるのだが、脚本と演出がそれを打ち消すことなく、かえって強調している。例えば登場人物たちが置かれている状況や心の動きを、絵ではなく台詞で語らせている部分が多い。これは絵が貧弱だから、どうしても言葉に頼らざるを得なくなるのだろう。カットを割らない長回しも多いのだが、これがまた舞台中継のようでつまらない。カットをやたらと割ればそれで映画になるわけでもないが、緊張感のない長回しは見ている者を退屈させるだけだ。もちろん予算の制約はわかる。予算があれば、台詞に頼らず観客を納得させる絵が作れるだろう。予算があれば、撮影日程をもう少したっぷり取って、ひとつのシーンを複数のカットに割ることも、マルチカメラで複数ポジションから一度にワンシーンを撮ってしまうことだってできたかもしれない。

 登場する患者たちの病の原因となっている心の傷が、それぞれ実際の事件や世の中の動きと連動しているというアイデアは悪くないと思う。ただしそれが、世の中の事件や動きの「紹介」で終わっているのは残念。人は「出来事の紹介」では感動しない。新聞記事にどれだけ悲惨な事件や事故の記事が載っていようと、それが人を感動させたり感銘を与えることはまずないだろう。それは「出来事の紹介」に過ぎないからだ。しかしそこに生きた人間の「物語」があれば、人はその中に引き込まれて心を動かされる。僕はこの映画の中で語られる患者たちのエピソードの中に、そうした「物語」を感じないのだ。「確かにそういう事もあるでしょう。たいへんご苦労でしたね。でもそれが私にどんな関わりがありますか?」という話になってしまう。

 物語には本来、その世界に無関係の第三者を無理矢理にでも引き込んでしまう力がある。人が夢中で小説を読んだり、映画を観たりするのは、そこで起きている出来事が他人事ではないと感じられるからだ。しかしこの映画は、物語としての力が弱い。

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2月26日公開予定 シネマート新宿、ヒューマントラストシネマ渋谷
配給・宣伝:グアパ・グアポ
2011年|1時間37分|日本|カラー|16:9|ステレオ
関連ホームページ:http://sekadoko.jp/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:世界のどこにでもある、場所
関連CD:かしぶち哲郎 映画音楽集 TETSUROH KASHIBUCHI Musiques De Films
関連DVD:大森一樹監督
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