名前のない少年、脚のない少女

2010/12/10 松竹試写室
インターネット時代の新しい「リアル」を描く青春映画。
もう少しわかりやすい映画になりそうだけど。by K. Hattori

Namaenonai  ミスター・タンブリングマンというHN(ハンドルネーム/ネット上の仮名)でネットにアクセスしている少年は、ネットの中で出会った少女に恋をしている。彼女のHNはジングル・ジャングル。彼女自身の撮った写真やビデオに、引き込まれるように見惚れる少年。だが写真投稿サイトにアップロードされている写真は、もうだいぶ前から更新されることはない。それでも少年は、その写真を飽くことなく眺めている。彼が暮らしているのは、ブラジル南部にあるドイツ系の小さな村。少年は生まれ育ったその村から、いつか外に出て行きたいと思っている。でも少年の彼にできることは、夜中にこっそり家を出て友人とふたりで他愛のない無駄話をしながらマリファナを吸う程度のこと。でもネットにつながっている時、少年は自分が遠い世界につながっている自由な気持ちを味わえる。

 かなり暗くて重苦しい雰囲気の映画で、特に映画の前半は物語もなかなか動き出さないし、登場人物の関係もよくわからないし、主人公を取り巻く状況が飲み込めないなど、ちょっと難しい映画になっている。ただしこれは難解なわけではなく、こうした情報をわざと観客の目に見えないところに隠しているだけだ。映画の中盤以降になれば、物語の全体図が見えてくる。しかしこうした構成が、映画に対してどのような意味を持っているのかはよくわからなかった。

 ジングル・ジャングルが自殺していることは、映画の導入部で観客に明かしてもよかったのではないだろうか。例えば映画を、物語中盤にある身投げ自殺のエピソードから始める。そこで主人公の友人の姉が、同じように自殺していることを観客に知らせてしまう。少年は家に戻ってパソコンの画面を開く。写真投稿サイトに残る少女のページの中で、彼女はカメラの向こう側に向かってニッコリと微笑み手を振り続けている。少年はその表情に魅了される。死んでいる彼女に恋い焦がれる。これによって映画の中にある「死」の刻印は、より色濃くなるだろう。また映画の中盤で少女のビデオに一緒に登場する恋人を出せば、観客はそこでまた驚くことになる。死んだ少女に取り憑かれたように死に引き寄せられる少年と、死のすれすれまで行きながらそこから戻ってきてしまった青年。ここからふたりは、死んだ少女を介して結びあわされていくはずだ。でも映画は、そうした「わかりやすさ」を避けている。

 これはインターネット時代の新しい青春映画であり、新しい形の恋愛映画だと思う。ネットの中には「今」しかないが、その「今」はネットの中で凍結する。パソコン画面の中で死んだ後も生き続ける少女の方が、生き残って実際に触れ合うことができる生身の人間より生々しい現実。ネットの中では距離の概念が消え、時間の概念が消え、生と死の境界線さえ消え、実名(現実)とHN(虚構)の差さえ消え去る。だがそれらをすべてひっくるめて、すべてがリアルなのだ。

(原題:Os Famosos e os Duendes da Morte)

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2011年1月公開予定 シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
配給・宣伝:アップリンク
2009年|1時間41分|ブラジル、フランス|カラー|シネスコ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.uplink.co.jp/namaenonai/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:名前のない少年、脚のない少女
関連DVD:エズミール・フィーリョ監督
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