1992年にアベル・フェラーラが監督した『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』を、ヴェルナー・ヘルツォーク監督がリメイクした刑事ドラマ。オリジナル版で主演していたのはハーヴェイ・カイテルだが、今回の映画では主演がニコラス・ケイジに替わり、物語の舞台もニューヨークから現代のニューオリンズに変更されている。1992年のニューヨークは世界有数の犯罪都市だったのだが、1994年から市長に就任したジュリアーニは市の浄化作戦を敢行。警官の汚職なども徹底的に取り締まって、犯罪都市の汚名を返上することに成功した。現在のニューヨークにはもはや「バッド・ルーテナント(汚職警部補)」が活動する余地がないのだ。ニューオリンズならそれが可能なのかどうかは知らないが、映画ではハリケーン・カトリーナで大打撃を受けて市が荒廃しきったところから物語を始め、復興していく町の中でひとりの刑事が徹底的に堕落してゆく様子を描いていく。
話の内容の良し悪しは別として、映画の中で見せるニコラス・ケイジの大げさな芝居が気になって仕方ない映画だ。彼の周囲はもっと抑えた、自然な芝居をしているのに、なぜケイジだけが大げさに目を見開きながら、うわずった声で芝居をしなければならないのかがよくわからない。彼はまつげが長いのか、目に特徴的な力があるのか、目をカッと見開いたりパチパチせわしなくまばたきをするだけで、芝居のムードやニュアンスをがらりと変えてしまう能力を持っている。それが映画の急所でピタリと決まると抜群の効果を生み出すわけだが、常にあの目力(めぢから)で演技されると芝居が大味で単調になってしまう。周辺の役者たち、例えば恋人役のエヴァ・メンデスや、麻薬の売人を演じたアルヴィン“イグジビッド”ジョイナー、義母役のジェニファー・クーリッジの方がずっと厚みのあるいい演技をしているのだ。この映画の中で最大の大根役者がニコラス・ケイジであることは間違いない。
彼の弁護をするなら、そもそもこれは「善良で有能な警官」の仮面を被った男の物語であり、行動や表情がぎこちなくて不自然になるのも役作りの内だと好意的に解釈することもできる。事実ニコラス・ケイジの大げさな芝居が、この映画のムードを決定づけているのも事実だ。映画全体にこの俳優が発散する大いなる違和感。彼が出てくるだけで発散される、どうしようもないうっとうしさ。それはこの映画を監督したヴェルナー・ヘルツォークが、かつてしばしばコンビを組んで数々の名作を生み出した怪優クラウス・キンスキーが持つムードに一脈通じるものでもある。ひょっとするとヘルツォークはこの映画に、かつてのキンスキーを望んだのかもしれない。今現在それにもっとも近いムードを生み出せる俳優が、ひょっとするとニコラス・ケイジ?
しかし名優と大根は紙一重。今回のケイジの立ち位置は……、う〜む、微妙だ。
(原題:The Bad Lieutenant: Port of Call - New Orleans)