1879年。コロンビア北部の港町カルタヘナで電報配達の仕事をしている少年フロレンティーノは、配達先の屋敷で町一番の美少女フェルミーナと出会って恋に落ちる。彼は自分の熱い思いを長文のラブレターにしたためて彼女に献げ、幾度かの手紙のやり取りの末ついに彼女にプロポーズ。だが彼女の父はこれを知って激怒し、娘を町の名士でもある裕福な医者に嫁がせてしまう。フロレンティーノはそれでも彼女を忘れることなく愛し続け、最初の出会いから51年と9ヵ月と4日たった日、彼女の夫が亡くなってから再度彼女に愛を告げるのだった……。
物語をかいつまんでしまうと、若い頃に愛し合いながらも引き裂かれた恋人たちが、半世紀を越えて再びめぐり逢い結ばれるという純愛大河ドラマであるかのようだ。しかしこれはそう簡単に「純愛ドラマ」と言えるようなものではない。フェルミーナはフロレンティーノへの愛が醒めたからこそ医師のフベナルと結婚したのだし、フロレンティーノは彼女に振られた後は途方もない数の女性たちと(わかっているだけでも622人!)猟色三昧の日々を送っている。ふたりには互いが共有することのない別々の50年があり、その日々はふたりにとってそれなりに幸福で甘美な思い出の詰まったかけがえのないものなのだ。
物語の上では主人公たちの長い長いすれ違いがようやく終わり、ふたりはひとつの流れに合流したかのように描かれている。おそらくフロレンティーノもそう考えているに違いない。彼にとってフェルミーナを失った50年間は死んだ時間であり、再会によって時間は再び動き出したのだ。だからこそ彼は、それまでの女性遍歴をまったく無視して彼女に接することができるのだ。これは自分を偽っているわけではなく、彼の本気の本音に違いない。
しかしフェルミーナはどうだろう。彼女にとってフロレンティーノのいない50年は、それなりに充実した別の人生を生きた時間だ。彼女はフロレンティーノとの恋を取り戻したのではない。彼女は彼に再会したその日に、彼との思い出の手紙をすべて破り捨てている。ふたりの関係はこの時点で一度完全に断ち切られ、フェルミーナは若き日の恋人ではなく、目の前にいる70歳の老人フロレンティーノとの関係を再びゼロから作り出すしかないのだ。
男と女のこうした思惑の違いは、すでにふたりの間に新たな感情のすれ違いを生み出している。だからふたりは「死」によって、流れているはずの時間を止めてしまうのだ。やがてすれ違っていくであろうふたりの人生は、その瞬間だけ静かに寄り添いながら川面にたゆたうことができる。死をもたらす「コレラ」がフェルミーナとフベナルを巡り合わせ、フロレンティーノとフェルミーナの結びつきを確かなものにする。
死はすべての思い出を美化し、あらゆる悪徳を正当化する。死に直面しているからこそ、主人公たちの関係も美しく見えるのだ。
(原題:Love in the Time of Cholera)