1973年に製作された同名のイギリス映画を、ニコラス・ケイジ主演でリメイクしたもの。物語の舞台はイギリスからアメリカに移され、細かな設定が変更されてはいるが、ストーリーの概略はほぼオリジナルに忠実な再映画化となっている。僕は幸運にも1998年にオリジナル版が日本初公開になった時、オリジナル版の『ウィッカーマン』をスクリーンで観ることができた。今回の映画と比べてどちらが好きかと言われれば、そりゃ最初に観たオリジナル版に決まっている。初めて観た映画で味わった新鮮な驚きを、リメイク版で再び味わうことはできないのだ。しかしもし最初にこのリメイク版を観たら、これはこれで十分に面白かったと思うし、その後にオリジナル版を観れば、モタモタした展開とノンビリしたムードにガッカリしたかもしれない。(オリジナル版は、そのモタモタ、ノンビリしたところがいいんですけどね。)
カリフォルニアの交通警官エドワード・メイラスは、数年前に突然姿を消した婚約者ウィローから1通の手紙を受け取る。彼女は故郷に戻って母親になっているが、最近になって子供が行方不明になったので助けてほしいというのだ。彼女の故郷はワシントン州にあるサマーズアイル島。周囲から孤立したこの島の人々はほぼ自給自足で生計を立てており、捜査のため島を訪れたメイラスもまったく歓迎されていない。少女はどこに消えたのか。島民たちはメイラスに何か重大なことを隠している様子なのだが……。
脚本にはいろいろと新しいアイデアがちりばめられていて、それが主人公の行動を後押しする仕掛けになっている。例えば主人公の目の前で、旅行中の母子が乗る自動車が事故を起こすというエピソード。この事故から子供を助けられなかったという負い目が、主人公のサマーズアイル島行きをうながしている。行方不明の少女を助けることは、主人公にとって「救えなかった少女」に対する罪滅ぼしなのだ。主人公の切迫した行動にさらに拍車をかけるのが、「モトカノに自分のかっこいい姿を見せたい」という多少の色気であり、行方不明の少女が自分の実の娘かもしれないという現実に対する喜びと戸惑いだ。映画はこうして、主人公を一定の方向に追いやっていく。なかなかの脚色だ。
しかしすべてを主人公の個人的な事情と強く結びつけすぎた結果、少女の行方不明事件という重大なミステリーが、主人公のプライベートな領域に収まる小さな事件であるかのような印象になってしまったのは残念。島民総ぐるみで隠蔽しようとしている重大犯罪は、映画の中で常に一定して重大犯罪であってほしかった。そう考えると、消えた少女は「主人公の娘」という特別な個人ではなく、匿名の「少女」のままの方が良かったのかもしれない。あるいはこの少女の父が誰なのかというミステリーを最後まで残して、最後に正体をばらし、さらに驚愕のラストにつなげるとかね。
(原題:The Wicker Man)