アメリカの女流写真家ダイアン・アーバスの伝記「炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス」をもとに、ひとりの女性写真家の内面と周囲の人々を幻想的に描き出していくファンタジー。ニコール・キッドマン演じるダイアン・アーバスは実在の写真家ダイアン・アーバス自身であると同時に、映画のために大きく脚色されている別のキャラクターだ。登場するキャラクターやエピソードは、実話に沿ったものもあればそうでないものもある。この映画は写実でありながら、写実性を大きく逸脱していく。タイトルの『幻想のポートレイト(An Imaginary Portrait)』というのは、なるほどうまいタイトルだ。
劇中ではヒロインに対して2つの呼び名が使われている。夫や家族が使う「ディアン」という呼び名と、彼女の新しい“隣人”たちが使う「ダイアン」という呼び名。ふたつの呼び名は単なる発音の違いということではなく、劇中でも「ディアン、ダイアン」のように続けて呼ばれていることもあるので、そこに意図的な使い分けがあるのだろう。映画は夫に従う平凡な主婦だった「ディアン」が、自立したひとりのアーティスト「ダイアン」へと生まれ変わっていく様子を描いているのかもしれない。
映画の中でヒロインのダイアンは、同じアパートの上の階に越してきた男との出会いをきっかけにして、それまでは決して知られることのなかった異形の世界へと足を踏み入れていくことになる。時代は1950年代の終わり。この時代までのアメリカは、明るくて健康的なことが価値とされて、それ以外のものは社会に存在しないものとして闇の中に封印されていた。しかしダイアンは、その闇にうごめく人々の姿に強く惹かれる。それは従来のアメリカ的価値とは正反対の、暗くて、病的な人々の姿だ。映画の中のダイアンは、そうした人々に倒錯した「美」を見出す。自分自身の中に封じ込められた暗さや病的な感覚が、急速に解放されていく後ろめたい喜び……。
後ろめたい喜びというものは、その内容はどうあれ、多くの人に経験のあるものだと思う。しかしこの映画はそれを、1950年代のアメリカという時間と場所にピタリとはめ込んでいる。そこは文化的な規範意識の強い世界であり、その規範から外れた人が強い抑圧を感じる世界でもある。映画の中のダイアンは、そこで強い抑圧を受ける。夫から、娘たちから、両親から。だがそうしたものは、彼女自身の愛の対象でもある。彼女は家族を愛している。愛しているからこそ、そこから受ける抑圧は深刻なものとなる。
この映画は「美女と野獣」や「不思議の国のアリス」の変奏曲であると同時に、イプセンの「人形の家」のバリエーションでもあるのだ。劇中のダイアン・アーバスは、20世紀のアメリカに生まれたノラ。彼女はやがて、家を出て行くことになる。
(原題:Fur: An Imaginary Portrait of Diane Arbus)