サマリア

2007/02/01 早稲田松竹
一人娘が援助交際をしていることを知った父親の苦悩。
少女チェヨンはどこに消えた? by K. Hattori

 若い頃に牧師を志したこともあるというキム・ギドク監督の作品には、キリスト教的なテーマやモチーフを用いたものが多い。この映画はさしずめその代表作と言えるだろう。タイトルの『サマリア』というのは、新約聖書に登場する地名。3部構成の本作の中では、第2部にも「サマリア」というタイトルが付けられている。劇中でヒロインの部屋にはキリストの肖像画が飾られているし、父親は娘にキリスト教にちなんだ奇跡の話を繰り返し語り続ける。罪を浄化する場としての水辺は、キム・ギドク作品ではおなじみの場所だ。

 この映画には大きな仕掛けがひとつある。それは登場するふたりの女子高生のうちひとりが、途中で消えてしまうことだ。彼女の名はチェヨン。親友ヨジンと一緒に援助交際をして、ヨーロッパ旅行のためのお金を貯めている。ただし男と寝るのはチェヨンだけ。ヨジンはホテルの外で見張り役だ。だがある日ヨジンがうっかり目を離した隙にホテルに警察の手が入り、逃げ場を失ったチェヨンはホテルの窓から飛び降りて死んでしまうのだ。今回この映画を再び観て、僕はこのチェヨンが実在しないのだと気が付いた。彼女は援助交際をしているヨジンが、心の中に生み出した幻影の少女なのだ。彼女の不慮の死は、ヨジンの心の中に起きた大きな変化の象徴。現実に誰かが死んだわけではない。ヨジンがチェヨンの家族の連絡先を知らないのは当然だ。チェヨンは本当は存在しないのだから。チェヨンの死が、学校でまったく話題にならないのも同じこと。そもそもチェヨンという少女は最初からいないのだ。

 映画はヨジンの父が娘の援助交際を知ったところから、本格的に動き始める。そもそもチェヨンは存在しないのだから、『サマリア』という映画は最初から「父と娘」の映画なのだ。父親は娘の行っていることを知ってとても驚き、戸惑いと悲しみの中で我を忘れる。だが彼は娘に対して、何も言えない。しかし娘に見つからないように彼女を尾行し、相手の男たちに制裁を加える。そこで流される血の原因を作ったのは、娘のヨジンだ。だが父はその娘の罪を裁くことはせず、娘の相手をした男たちの罪を糾弾する。悲しみが怒りに転化したのだ。

 映画の終盤は、父と娘の贖罪の旅になる。たどり着いた先は、ゆったりと流れる川のほとりだ。父親は娘と一緒に乗った車を、川の水の中に置き去りにする。これが水による罪の洗い流しを象徴している。人は水の中で一度死に、罪を洗い流して再び蘇る。映画ではこの場面に、ヨジンが殺される夢の場面を挿入して「死と再生」を端的に表現している。罪は赦され、娘の罪を身代わりとなった父が背負うことになる。川の水による死と再生は「洗礼」の秘蹟を、父親の逮捕は人々の罪を背負った「イエス・キリストの贖罪死」のメタファーだろう。しかし罪から解放された人間に、行くべき場所はない。娘の運転する車は、水辺から動けないのだ。

(原題:Samaria)

1月27日〜2月2日 早稲田松竹
配給:東芝エンタテインメント
2004年|1時間35分|韓国|カラー|ビスタ|SRD
関連ホームページ:http://www.samaria.jp/
DVD:サマリア
ノベライズ:サマリアの少女
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